大領を与えられる
その後、1600年には秀吉死後の権力争いが激化し、石田三成と徳川家康の間で、天下分け目の「関ヶ原の戦い」が行われます。
この時に長政は積極的に徳川家康に味方し、小早川秀秋を寝返らせる工作を成功させるなどして、おおいに活躍します。
そして決戦場では6千の兵を率いて最前線に立ち、西軍の主将である石田三成と対戦しました。
この戦いに又兵衛も参加しており、石田三成の家臣で、槍の名手として知られた大橋掃部を一騎打ちで討ち取るという戦功を立て、東軍の勝利に貢献しました。
そして戦後になると、黒田家は筑前(福岡)に52万石という大領を与えられます。
そして又兵衛もその中から、1万6千石を与えられます。
1万石以上が大名と呼ばれる身分ですので、この時の又兵衛は、相当な出世を遂げたことになります。
こうして又兵衛は黒田家の重臣の立場を手に入れ、その名を他家にも知られるほどの存在になりました。
長年の功績によって大きな領地と名声を共に手に入れたわけですが、ここから又兵衛の変転が、またも始まってしまいます。
黒田家を出奔する
1604年に、又兵衛の親がわりであった黒田官兵衛が死去します。
そしてそのわずか2年後に、又兵衛は一族を引き連れて黒田家から出奔してしまいました。
又兵衛はこの頃には武将として高名な存在になっており、他家の武将たちとも幅広く交際をしていました。
黒田家の隣に領地を持つ細川家との関係も深かったのですが、これを黒田長政が気に入らなかったのです。
長政と細川家の当主・忠興は仲が悪く、長政は家臣の又兵衛が、細川家の人間と付き合うのを苦々しく思っていました。
そのことで又兵衛を咎め、それがきっかけとなって出奔を決意させたようです。
又兵衛は、家臣の人付き合いに口を出すような、器の小さい主君に仕えるのは嫌だ、と思ったのでしょう。
戦乱の時代では、優れた武将をどの勢力でも必要としており、又兵衛ほどの高名な武将であれば、再仕官の口を探すのも、さほど難しくありませんでした。
かつては「七度主君を変えなければ、一流の武将ではない」とうそぶく武者がいたほどです。
それを見込んで又兵衛は出奔をしたのだと思われます。
しかしこの頃には、すでに徳川家康が幕府を開いて天下を統一しており、世は安定と平和に向かって動き出す時代になっています。
このため、又兵衛の運命も大きく変わっていくことになります。
京都で浪人となる
又兵衛はひとまず細川忠興を頼って豊前に移りますが、これが黒田家と細川家の争いの火種となり、戦いが起きかねない情勢になってしまいました。
このため、徳川家康が自ら仲裁に入り、又兵衛が細川家を退去することで決着がつきます。
又兵衛が浪人になったことで、福島正則や前田利長などの大大名たちが又兵衛を誘いますが、長政が「奉公構(ほうこうがまえ)」という措置をとったことにより、仕官することができませんでした。
奉公構とは、対象にした元家臣を、他家が召し抱えないようにと通知することを言います。
これは切腹につぐ重刑で、豊臣秀吉がこの制度を始めたと言われています。
秀吉の時代にも天下は統一されていましたが、そういう時代には安定が求められ、人材が軽々しく退転し、他家に仕えることをよしとしない風潮が強くなっていきます。
能力の高さよりも、主君に対して忠実に尽くし、波風を起こさないことが美徳とされるように、時代が変化してしまったのです。
このため、又兵衛はやむなく故郷の播磨に戻り、やがて領主の池田忠継に仕官をしますが、これも奉公構のために長く続けることができませんでした。
1611年に又兵衛は再び浪人しますが、この頃には長政の怒りも収まってきたのか、徳川幕府を通して又兵衛を帰参させようと働きかけます。
しかし又兵衛はそれを受ける気はなかったようで、長政と連絡を取らず、以後は京都で浪人生活を送りました。
一時期は自ら物乞いをするほどに落ちぶれたと言われており、又兵衛は世の風潮の変化を、その身で思い知ることになりました。
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