戦後処理
関ヶ原の戦いで家康が勝利したことで、信幸は勝者の側に立つことになりました。
そして父の領地に加えて新たに3万石を加増され、上田・沼田を合わせた9万5000石の大名になります。
一方、敗者となった昌幸と信繁は、家康から死を命じられます。
家康からすれば、昌幸はかつて自分が煮え湯を飲まされた相手で、そして今度は息子の秀忠が同じ目にあったわけで、とうてい生かしておくつもりはありませんでした。
しかし信幸と、岳父の本多忠勝が助命を嘆願したため、死刑はとりやめ、紀州の九度山への流罪に減刑します。
義理とはいえ自分の娘婿である信幸と、重臣の本多忠勝の嘆願を、そうそうむげにすることもできなかったのでしょう。
この時の判断が、後に家康の身を危うくすることになりますが、さすがにこの時点では誰も予想できることではありません。
父と弟が助命されて後、信幸は「信之」と改名し、父から受け継いだ「幸」の字を捨て去ります。
そうすることで父からの決別を宣言し、徳川氏への忠誠を明らかにしました。
こうして信幸は真田氏を滅亡させず、より安定した立場で存続させることに成功します。
できるなら父や弟も徳川に従ってほしいと思っていたでしょうが、それはかないませんでした。
上田の復興
父の上田領を継承したものの、この頃には浅間山の噴火などもあって土地が荒廃しており、信之はその再建に追われることになります。
年貢の減免を行って民の負担を減らす一方、城下町の整備や治水事業を行い、生産力を回復させていきます。
一方で私費を使って父や弟への生活援助も行い、暮らしが立ち行くようにと配慮しました。
その適切な政策の結果、領内の荒廃は収まり、倹約家であった信之は20万両もの大金を蓄財しています。
(一両は現代の数十万円に値すると言われています。仮に10万円で換算すると、200億円になります)
信之は戦闘に強いだけでなく、領主や財政家としても優れた手腕を備えていたようです。
父の死
そうして領地の統治が安定した頃、1611年に昌幸が九度山で死去します。
信之は葬儀を執り行おうと徳川幕府に許可を求めますが、許されませんでした。
家康も秀忠も、自分たちに逆らい続け、痛手を与えられた昌幸のことは、死してなお許す気にはなれなかったようです。
そのように昌幸が生きた道のりは、その死を間近で見届けた信繁が受け継ぐことになります。
昌幸の死から3年後、「大坂の陣」と呼ばれる戦役が発生し、信之からすれば、思わぬ形で真田の名が天下に轟くことになります。
大坂の陣と信繁の死
【徳川氏と戦い抜いた信繁の肖像】
1614年11月、豊臣秀頼を滅ぼすため、徳川家康は大坂に大軍を差し向けます。
これは「大坂冬の陣」と呼ばれています
この際に真田氏にも幕府から動員がかけられますが、信之は病気のために出陣できず、代わりに長男の信吉と次男の信政を大坂に向かわせます。
一方でこの戦いには、弟の信繁が九度山を抜け出し、豊臣方として参戦していました。
参戦しただけでなく、真田丸という出城を構え、攻めかかってきた前田軍に大きな損害を与えるなどして活躍します。
この時まで信繁は無名の存在でしたが、この大舞台で父に劣らぬ優れた軍才を見せつけ、一躍高い評価を受けることになります。
この頃に信之の家臣から信繁の元に馳せ参じるものが現れるなどして、信之は対応に苦慮させられます。
さらにその翌年、「大坂夏の陣」では徳川方と豊臣方で2倍の兵力差がありましたが、信繁は劣勢をものともせず、家康の本陣に突撃をかけて逃走させるという大きな武功を立て、「日本一の侍」と称されます。
やがて大軍を相手に力尽きた信繁は戦死しますが、その名は一層高まり、後世にも広く知られるほどの武将になりました。
圧倒的な強者となった徳川氏と最後まで戦い抜くという、父から受け継いだ道を、命を賭して貫いたことになります。
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