織田信長の「天下布武」 その道のりの全て

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包囲網への反撃

翌1571年になると、信長は包囲網への反撃を開始します。

まず、2月に浅井氏に属する近江の佐和山城主・磯野員昌(かずまさ)を攻撃します。

佐和山城は小谷城の南にありましたが、浅井氏が横山城を奪取されたことで小谷城から切り離され、孤立していました。

このため物資にも事欠くようになり、信長に包囲されると間もなく降伏しています。

信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、近江の支配権を強化していきます。

5月には浅井長政が一向一揆と手を結び、再び姉川付近に進軍してきますが、横山城の木下秀吉が奮戦してこれを撃退しています。

こうして信長は浅井氏をじわじわと追い詰めて行きました。

9月には六角氏の残党が篭もる南近江の志村城を攻め、600を超える首級をあげるなどしてこれを壊滅させます。

こうして美濃や京都に隣接しており、信長にとって戦略的に重要な意味を持つ近江の平定を進めていきます。

また、伊勢にも侵攻し、先に一向一揆に参加した村々を焼き払いました。

一向宗は農村を根拠地として信者を集め、兵士として戦わせていましたので、これを根絶するには農村を攻撃する必要がありました。

信長は領民をいたぶったりすることはない領主でしたが、一向宗に対してはその限りではなく、容赦のない処置を取っています。

こうして敵対勢力を弱体化させると、次は延暦寺を包囲します。

延暦寺の焼き討ち

延暦寺は先に述べた通り、伝統ある特別な寺院でしたが、京都の近くにあって数万の大軍を収容できるほどの巨大な軍事施設でもありました。

そして北陸路と東国路が交わる交通の要所でもあり、ここを敵対勢力に利用されると、信長にとって重大な脅威になる可能性がありました。

昨年に中立の要請すら受け入れなかったことから、信長は延暦寺を攻め滅ぼすことを決意します。

そして3万の大軍を率いて隙間なく山を取り巻き、早朝からの攻撃を準備します。

早朝を選んだ理由は、夜になると視界が悪くなって僧どもを取り逃がす可能性が高くなるため、明るいうちに攻撃を終えられるようにしたほうがいいという、家臣の池田恒興の進言を受け入れたためです。

このことから、家臣たちも延暦寺の攻撃に積極的になっていたことがうかがえます。

延暦寺はここに至って信長が本気であることを悟り、多額の黄金を贈ることで攻撃中止を嘆願しますが、信長はこれを受け入れませんでした。

そもそも寺院が黄金を蓄えているのがおかしな話ではあります。

やむを得ず延暦寺は僧兵を集め、僧侶たちも一箇所に集合させます。

9月12日に信長は総攻撃を命じ、諸隊は各所から攻め上がって行きました。

そして高名な僧侶も俗人も、児童もかかわりなく切り捨てさせ、首を集めさせたと言われています。

この時に数千人の死者が出ており、延暦寺は壊滅しました。

信長がここまで厳しい対応をしたのは、重臣や弟の死に延暦寺が加担したことも影響し、その復讐の意図もあったのかもしれません。

攻撃が終わると信長は寺領を没収し、明智光秀や佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀らに配分しました。

特に明智光秀は多くの加増を受け、近くに坂本城を築いて大名並の待遇となっています。

この時に光秀は信長の延暦寺攻撃に反対したという説がありましたが、むしろ積極的に加担したというのが事実のようです。

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