摂津からの撤退と比叡山の包囲
浅井・朝倉軍は9月21日には京都の山科のあたりまで姿を見せており、もはや信長には摂津攻略に取りかかる時間の余裕が失われていました。
柴田勝家が信長に撤退を進言し、これを容れて信長は摂津方面を放棄し、近江へと向かいます。
そして9月24日には近江に到着し、浅井・朝倉軍に攻撃を開始します。
たちまちのうちに1000人もの死傷者を出させるほどの損害を与え、両軍を比叡山へと撤退させます。
この時に攻撃を受けていた宇佐山城は、可成の遺臣たちが頑強な抵抗を見せ、守り抜いていました。
こうして可成とその家臣たちの奮闘によって、織田軍は南近江を失陥する危機を回避できました。
もしもこの時宇佐山城が陥落していたら、信長は美濃と京都の連携を分断され、近畿の領地を失うことになっていたかもしれません。
信長は宇佐山城に入って軍勢を整えると、比叡山を包囲します。
延暦寺の抵抗
比叡山の延暦寺は伝教大師・最澄が桓武天皇の支援を受けて開いた寺であり、朝廷との結びつきが強く、古来から栄えていました。
しかしその権威をたのみに財を蓄えたり、政治に介入したり、僧兵を揃えて武力を持ったりと、仏教徒のあるべき姿を見失った状態にもありました。
相手が伝統ある寺院なだけに、この時の信長は容易に攻撃に踏み切れず、「味方につくなら織田領にある延暦寺の荘園を返還する。それができないなら中立を保つように」と延暦寺に要請しています。
そして「敵対するなら焼き討ちをする」とも通告します。
しかし延暦寺はこれに応じず、浅井・朝倉軍との協力を続けます。
宗教的な権威があるから我々には信長も手は出せまいと、奢っていたのでしょう。
こうして戦況は膠着状態となり、信長はやむを得ず主力を延暦寺付近に配置して包囲を続けますが、そうしているうちに他方面の戦況が悪化していきます。
苦戦する織田軍
信長が身動きの取れない状況下で、本願寺顕如の指令を受けた伊勢長島の一向一揆が蜂起します。
そして一向宗の抑えとして尾張・古木江(こきえ)城を守備していた信長の弟・織田信興が攻撃を受ける事になります。
信興は北伊勢に駐屯していた滝川一益に救援を要請しますが、こちらも一向宗の攻撃を受けて籠城に追い込まれており、これを果たすことができませんでした。
6日に渡って防戦をしますが、ついに古木江城は落城し、信興は自害して果てました。
一方、既に攻略していた若狭(福井県西部)では国人領主たちが朝倉氏に寝返り、一部の領地を奪還されてしまいます。
そして京都は三好三人衆に攻撃を受けますが、和田惟政が奮闘してこれを撃退し、からくも守り通しています。
こうして各地で反織田連合の攻撃を受け、それでいながら延暦寺に篭もる浅井・朝倉軍も降伏せず、信長は窮地に追い込まれていきます。
このため、信長は外交的な手段で状況を打破することにします。
各勢力との講和
信長は11月30日に、足利義昭を通じて正親町天皇の勅命を得、浅井・朝倉氏との講和を図ります。
朝倉氏の領国は北陸にあり、冬になると雪が降って畿内と分断されるという問題があったため、これを受け入れて互いに撤退することになります。
そして三好三人衆とも和睦しますが、彼らはこの機に敵対していた松永久秀・三好義継とも和睦しており、後にこれが信長に災いをもたらすことになります。
ともあれ、この講和によって信長は本隊を延暦寺に釘付けにされる束縛から解放され、危機を脱することができました。
信長の朝倉氏討伐から始まった動乱の結果、浅井長政が同盟を破棄し、三好三人衆が摂津に舞い戻り、石山本願寺と比叡山が敵に回り、南近江の六角氏の残党も信長への抵抗を続けるという、周囲が敵だらけの状況になりました。
そして雑賀・根来衆は一向宗の信徒であったため、信長から離れて石山本願寺につき、手強い敵となっていきます。
一方で信長の味方は、三河と遠江を支配する徳川家康のみとなりました。
そしてこの一年だけで、信長は重臣の森可成と、信治と信興、二人の弟を失うことにもなってしまいました。
それでも信長は屈することなく、天下布武への道を邁進していきます。
むしろここまでの被害を出したからこそ、ここで立ち止まるわけにはいかないと、決意を新たにしたかもしれません。
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