設楽原の決戦
別働隊が長篠城を救援していたころ、設楽原でも信長・家康と勝頼の間での決戦が行われます。
勝頼は左右に軍を大きく展開する鶴翼の陣を敷き、山県昌景らの優れた戦闘指揮官たちに、左右から織田軍を包囲させる作戦を取ります。
武田軍は果敢に信長が築いた野戦城に挑みかかりますが、柵や土塁をひとつ崩すたびに、鉄砲を撃ちかけられるなどして大きな損害を出してしまいます。
これらの防御施設に阻まれるため、武田軍が誇る精強な騎馬隊も力を発揮できず、無力化されてしまいます。
こうして戦況は圧倒的に織田・徳川連合軍の優位に推移します。
もともと織田・徳川軍はこの戦場で武田軍の3倍の兵力を持っていましたし、そのうえ防御の堅い陣地を築いていたのですから、これに挑みかかるのは無謀に過ぎました。
ついには武田軍の中央に位置していた部隊が、勝頼に無断で撤退を始めてしまいます。
これらの部隊は勝頼の親族衆たちが率いていましたが、戦況の不利を悟り、自分たちの身に危険が及びそうだと気づき、いち早く逃げを打ってしまったようです。
これによって武田軍は総崩れとなり、左右に展開していた各部隊は逆に包囲され、追撃を受ける状態となります。
こうして山県昌景、馬場信房、内藤昌豊ら、武田軍の中核を担う歴戦の武将たちが数多く戦死し、1万近い死傷者が出たと言われています。
後方の鳶ヶ巣山砦を酒井忠次に抑えられて退路を遮断されており、それゆえに撤退がはかどらず、追撃を受けて損失が拡大したのでしょう。
この別働隊の働きによって、信長は武田軍を包囲殲滅することができました。
こうして信玄以来の強勢を誇った武田軍は壊滅し、以後の勝頼は劣勢を強いられることになります。
当時の武田軍は戦国最強の軍団であるとみなされていましたので、これを完膚なきまでに打ち破ったことは、信長にとっては政治的にも大きな意味がありました。
家臣たちに官位を与える
信長が京都に戻ると、正親町天皇は武田に勝利した信長に新たに官位を与えようとしますが、信長はこれを断っています。
かわりに家臣たちに姓や官位を与えてくれるようにと申し出、この結果、羽柴秀吉が筑前守に、明智光秀に惟任の姓と日向守が与えられるなどしています。
この時に両者に九州の官位が与えられたのは、将来の九州討ち入りを両者に託す意図があったのだと思われます。
信長は秀吉と光秀に、西国の支配を担当させようと考えていたようです。
こうして自身だけでなく、家臣たちにも地位を与え、日本全土の支配体制を構築するための準備を進めていきました。
越前の一向一揆を討伐する
越前は朝倉氏が滅んだ後、信長の支配下にありましたが、やがて一向一揆が蜂起し、守護の前波吉継を殺害してこれを占拠しています。
しかし本願寺から派遣された下間頼照が悪政をしいたことから一揆勢の中で内部分裂が発生し、混乱した状況にありました。
信長はこの好機をいかすため、大軍を率いて越前に向かいます。
そして分裂していたために組織的に抵抗できなくなっていた一揆勢をおおいに討ち破り、1万2千もの門徒を殺害したと言われています。
「府中は死骸ばかりで空きどころがないほどだった」と信長が記した書状が残っています。
この時に前田利家が捕らえた1000人ほどの門徒を、磔や釜茹でにするなどして処刑した、という話もあります。
伊勢長島と同じく、一向宗に関しては、敵対を続ける限り徹底して殲滅していくという方針がこの時も貫かれています。
こうして越前は信長の支配下に戻り、柴田勝家が越前一国49万石という大領を与えられることになりました。
こうして柴田勝家は、北陸方面の攻略を担当する軍団長に任命されました。
右近衛大将となる
越前の討伐が完了した後、信長は朝廷から権大納言と右近衛大将に任じられます。
この右近衛大将は征夷大将軍と同格の地位であり、朝廷から信長が武門の棟梁であると認められたことになります。
足利義昭は右近衛中将でもあり、信長よりも近衛府においては格下の地位に置かれたことにもなります。
かつては源頼朝もこの地位につくことで政権を樹立させており、この時点で信長の覇権はほぼ確立されたと言えるでしょう。
この時から信長は「上様」という尊称で呼ばれるようにもなっています。
そして嫡男の信忠が同時に秋田城介に任官されています。
秋田城介は武官の最高位である鎮守府将軍に任官されるための前段階として就く官職であり、信忠に武門の棟梁の地位を継がせるための準備でもありました。
そしてこの年のうちに信長は信忠を濃姫の養子にして織田家の家督を譲っており、尾張や美濃などの領国を継承させています。
こうして織田家による日本の支配体制を敷くための、公的な地位と継承の仕組みが確立されつつありました。
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