織田信長の「天下布武」 その道のりの全て

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街道の整備

畿内と濃尾平野における領国支配が安定してきたことから、信長はこの頃から各地の街道の整備に取りかかっています。

もとより信長は、関所を廃止することで流通網を充実させる施策を取っていましたが、街道を広げて通りやすくし、通行の安全を確保することで、さらに商業の活性化を進めていきます。

街道のところどころには休憩所も設置され、ひとりでも安全に、快適に旅ができるようになりました。

後にこの政策は徳川家康に引き継がれ、江戸時代になるとさらに拡大された形で街道の宿場町が整備されることになります。

このあたりの施策からも、信長の先見性をみることができるでしょう。

安土城の建築

1576年の1月から、信長は琵琶湖の湖岸に安土城の築城を始めます。

これは3年後に「ヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうる」と評されるほどの、巨大かつ華麗な城として完成しています。

信長は岐阜城を信忠に譲って安土城に移り、ここから天下統一を達成するための指令を各地に出していくようになります。

残念ながら安土城は本能寺の変の後、次男の信雄の手によって焼き払われており、図屏風や文献などからしか、当時の様子をうかがい知ることはできません。

信長の構想では、安土城を天下を治める中心地にするつもりだったのだとすると、滋賀が日本の中心地となる可能性もあったのだということになります。

新たな戦い

1576年になると、それまで信長に服属していた丹波(京都府中部あたり)の波多野秀治が敵対を宣言します。

そしていったんは和睦していた石山本願寺もまた、5万という大軍を集めて挙兵し、再び近畿での戦いが始まります。

信長は丹波の攻略を明智光秀に任せつつ、大坂には重臣の塙直政や明智光秀、荒木村重を中心とした3万の軍を派兵します。

(この頃の光秀は二方面を同時に担当していたことになります。)

しかし、総大将である塙直政は本願寺軍の奇襲を受けて戦死し、織田軍は天王寺に籠城することになります。

これが包囲されて窮地に陥ると、信長は急ぎ3000の兵を率いて駆けつけ、自ら先頭に立って天王寺城を包囲する本願寺軍1万5000に攻めかかります。

本願寺軍は鉄砲を撃ちかけてこれに対抗し、信長自身も銃撃を受けて負傷しますが、この信長の勇敢な様子に織田軍は奮い立ち、5倍もの兵力を持つ本願寺軍を撃破することに成功します。

そして城内の明智光秀らと合流すると、もう一度本願寺軍に突撃をかけ、2700の将兵を討ち取るという大戦果をあげました。

信長は政治家・戦略家としての能力が高く評価されることが多い人物ですが、このように一個の戦闘指揮官としても優れた才腕の持ち主でした。

この時の痛手は大きく、本願寺軍は以後攻勢に出ることはなくなり、ひたすら石山本願寺に籠城を続けることになります。

戦況が膠着したために、信長は重臣の佐久間信盛に石山本願寺を包囲するように命じ、付城を多数築城させて持久戦の構えを取ります。

この頃には城から退去すれば一般の宗徒は討伐しないと、立て札をつかって周知させるなどしており、一向宗に対する信長の態度が和らいできてもいます。

各地での一向宗の殲滅が進んで弱体化し、厳しい措置を取る必要性が薄れてきていた、ということでもあるのでしょう。

毛利水軍と上杉謙信の参戦

織田軍は追い詰めた石山本願寺を兵糧攻めにしようとしますが、ここで中国地方の支配者である毛利輝元が対織田戦線に参加し、水軍を大坂湾に派遣してきます。

そして石山本願寺を海上から封鎖しようとした織田水軍を撃破し、海からの補給路を確保します。

このため信長は石山本願寺にとどめをさせず、新たな敵と対峙する情勢になりました。

また、北陸では石山本願寺と上杉謙信が和睦しています。

そして謙信は信長との同盟を打ち切って対立の姿勢を明らかにします。

こうして上杉謙信を盟主として、毛利・波多野・石山本願寺・雑賀衆などの反信長同盟が形成されることになりました。

しかし、この頃には信長の勢力は飛躍的に増大していたため、かつての浅井・朝倉・武田時代の包囲網よりは、その圧力ははるかに減じていました。

こうして再度の反信長同盟が結成された背景には、足利義昭の追放が影響しています。

上杉謙信は足利幕府を支援する立場を一貫して取っていますので、義昭を京都から追放し、信長が右近衛大将についたことで、反信長の立場を明確に取るようになりました。

毛利輝元は手元に足利義昭を保護しており、こちらも義昭追放の影響を受けたのと、信長の中国地方進出を警戒しての参戦でした。

こうした動きの中、朝廷は信長支持で一貫しており、新たに信長は正三位・内大臣の地位を得ています。

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