織田信長の「天下布武」 その道のりの全て

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戦果の拡大と外交関係の変化

信長は今川軍が去った後の隙を見逃さず、沓掛城や鳴海城といった、尾張と三河の国境付近にある拠点を奪還します。

こうして尾張から今川氏の影響力を排除し、その支配権をより強固に確立しました。

さらに三河に帰還した松平元康が自立を宣言し、今川氏の勢力は大きく衰退します。

こうした情勢の変化を受け、信長は北の美濃の攻略に着手するにあたり、東の元康との同盟を模索するようになっていきます。

清洲同盟

織田氏と松平氏は、尾張と三河の領地を長年争ってきた関係にあり、同盟はなかなかまとまりませんでした。

1561年には国境付近で小競り合いが起きるなどしています。

しかし翌1562年には元康が信長の清州城を訪問し、そこで同盟が締結されました。

これには家康の伯父で、尾張と三河の国境付近に領地を持つ、水野信元が仲介したことが強く影響したようです。

この同盟によって信長は美濃の攻略に集中できるようになり、元康は三河の統一に向けて集中できるようになります。

このように相互に利益のある同盟でしたが、それぞれの立場が変わってもこの同盟は堅持され、信長の生涯に渡って良好な関係が続くことになります。

この時代の同盟は短期間で破られることも珍しくなく、一度も破棄されないのは稀有なことでした。

元康が義理堅い性格だったこともあり、両者の間には深い信頼関係が築かれていきます。

信長はやがて元康を弟同然に扱うようになり、元康も信長の覇権の確立に尽くしていくことになります。

美濃への侵攻の開始

桶狭間の戦いの翌1561年には、美濃の国主であった斎藤義龍が急死します。

後を継いだ斎藤龍興はこの時まだ14才で、信長にとっては美濃奪取の絶好の機会が訪れたことになります。

なんともタイミングのいい話ですが、信長は生涯に渡って、何度もこのような幸運に恵まれています。

信長はこの機を見逃さず、早速1500の精鋭部隊を率いて美濃に侵攻しました。

これに対して龍興は6000の兵を迎撃に向かわせます。

両軍は森部の地で激突し、信長は敵の4分の1の兵しか率いていなかったにも関わらず、これに圧勝します。

信長は兵を三手に分けて斎藤軍を包囲し、おおいに打ち破ったと言われています。

この時に斎藤軍からは寝返りを打つ者も現れており、これも勝因となったようです。

前年の桶狭間に続き、少数の兵で敵を圧倒したことから、信長の武威はさらに高まり、斎藤氏に所属する武将たちの間で動揺が広がります。

美濃の調略と木下秀吉の登場

信長は家臣の木下藤吉郎に命じ、美濃の諸将への寝返り工作を進めさせます。

この木下藤吉郎は、元々は信長の身辺の雑用をこなす小者という身分でしたが、信長から才能を認められ、やがて武将の身分にまで抜擢されています。

信長は元の身分に関わらず、能力のあるものにふさわしい役目を与えていく実力主義を取っており、木下藤吉郎はその代表的な存在でした。

彼は後に豊臣秀吉と名のり、関白にまで上り詰めるという、日本史上でも他に例のない大出世を遂げています。

この時に藤吉郎は「秀吉」の名を用いるようになり、美濃の武将たちとの交渉にあたっていきました。

秀吉は「人たらし」と言われるほど交渉に長けており、こういった役目にはうってつけの人物でした。

その結果、まだ若く、覇気もない斉藤龍興を見限る武将たちが増えていき、信長の勢力は美濃でも拡大していきます。

浅井氏との同盟

信長は美濃を攻略するにあたり、その西に勢力を持つ浅井氏の介入を防ぐため、同盟を結ぶことを考えます。

浅井氏は北近江(滋賀)を支配する大名で、この時は長政が当主になっていました。

信長は1564年に、その美貌で知られる妹のお市を長政に嫁がせ、浅井氏と同盟を締結します。

信長の方から人質を送ったも同然の措置であり、浅井氏の存在を信長が相当に重視していたことがうかがえます。

近江は尾張・美濃に勢力を持つ信長が京都に上洛しようとする際の通路になるため、これと同盟を結ぶことは、信長の将来にとっても重大な布石でした。

こうして東の松平・西の浅井と同盟を結ぶことにより、信長は勢力の拡大と、上洛を達成する上での外交的な下地を形成していきます。

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