織田信長の「天下布武」 その道のりの全て

スポンサーリンク

今川義元の侵攻

信長が尾張の統一に向けて邁進している頃、隣国の三河では今川義元の支配体制の確立が進んでいました。

義元は駿河・遠江・三河の3カ国を支配する大大名で、動員可能な兵力は信長の4倍にも達するという強敵でした。

しかも甲斐(山梨県)の武田信玄と、相模(神奈川県)の北条氏康との間に同盟を結んでおり、全力を尾張への侵攻に向けて振り向けられる外交体制も築き上げていました。

義元は1560年に2万の大軍を率い、満を持して尾張に侵攻して来ます。

この時の義元の戦略目的は、京都への上洛だったという説がありますが、道中には斎藤氏や浅井氏、六角氏など多数の大名がひしめいており、2万程度の軍勢で一度に京都に向かうのは不可能でした。

このため、おそらくは尾張の城を攻め落とし、支配領域を拡大することが目的だったのではないかと思われます。

尾張を統一したばかりの信長にとっては、滅亡につながる最大の危機が訪れたことになります。

義元とは違い、信長には同盟している勢力がなく、どこからも支援が期待できない状況でもありました。

今川軍の先鋒・松平元康

この戦いで今川軍の先鋒を務めていたのが、三河衆を率いる松平元康です。

松平氏はかつて三河を支配していた領主でしたが、この頃には落魄しており、今川氏に支配され、その家臣として戦わされる状況にありました。

義元から一字拝領して名前を元康にし、義元の一族の瀬名姫を正室にするなど、元康自身も深く今川氏に取り込まれた状態になっていました。

この元康が織田方の前線基地である丸根砦に攻撃を開始し、「桶狭間の戦い」が開始されます。

信長の対応

織田方は6月18日に清州城に集まり、重臣たちが軍議を開きました。

しかし、籠城策を取るか野戦をしかけるかで議論が紛糾し、結論は出ませんでした。

織田方は総兵力が5000程度であり、2万の今川軍にどう立ち向かうべきか、妙案を出せる者はおらず、いたずらに時間が流れていきます。

信長はこの時に意見を述べず、時間が遅くなってくると軍議を解散し、休息を取るようにと諸将に伝えました。

そして翌19日の午前三時ごろ、今川軍の先鋒が丸根砦に攻撃を開始したとの急報が入ります。

信長はこれを聞いて飛び起き、「敦盛」という幸若舞を舞って出陣の準備を整え、午前四時ごろに、五人の供を連れて清州城から出発しました。

信長自身にも迷いがあったのかもしれませんが、この時に野戦に打って出て、一か八かの逆転を狙う決断をしたことになります。

信長は熱田神宮に立ち寄り、そこで信長出陣の知らせを聞いて追随してきた各部隊の集結を待ちます。

そして神宮に参拝して勝利を祈願し、2500の部隊を率い、前線に近い善照寺砦に入ります。

そのようにして進軍しつつ、今川軍の動向に関する情報を集めていました。

丸根・鷲津砦の陥落と、義元の進軍

信長が前線に到着した頃、織田方の丸根・鷲津(わしず)の両砦が、今川軍の猛攻を受けて陥落しています。

この報告を受け、今川軍の総大将である義元は、5000の本隊を率いて尾張の国内に侵入します。

すでに今川方が手に入れていた大高城に入り、そこを拠点にして、さらに尾張に深く侵入する計画だったと思われます。

こうした義元の動きが、地元の豪族によって信長に通報されます。

信長がそれを義元であると察知していたかは不明ですが、単独で行軍する5000の部隊に打撃を与えることで、今川軍の戦意をくじこうと考えたようです。

信長は500ほどの兵士を善照寺砦の守備に残し、精鋭部隊である馬廻りを含む2000の部隊を率い、義元の本隊が進軍する方へと向かっていきます。

そこは桶狭間と呼ばれる土地でした。

小高い丘が点在しているため見通しの悪い土地で、信長が奇襲をしかけるには絶好の地形でした。

桶狭間の戦い

この日は昼ごろから大雨となり、石が混じって降るほどの豪雨ともなりました。

これが信長を利し、その行軍を今川軍に察知されることを防いでくれました。

やがて桶狭間を行軍する今川軍を補足すると、信長はこれに強襲をしかけます。

分散していたとは言え、この今川軍は織田軍の2.5倍の兵力でしたが、予想外の奇襲に動揺し、拮抗した戦いになります。

双方の総大将が、ともに自ら槍や刀をふるって戦うほどの激戦となりました。

時間が経過するにつれ、信長自らが鍛え上げた馬廻という名の親衛隊が活躍し、戦況は信長の有利に傾いていきます。

義元は不利を悟り、騎乗して撤退しようとしますが、馬廻り隊の波状攻撃を受け、護衛部隊とはぐれてしまいます。

そしてついに自身も補足され、馬廻りの一員である服部一忠に槍で攻撃されます。

義元は服部一忠の膝に切りつけてこれを撃退しますが、続いて挑みかかってきた毛利良勝に組み伏せられ、ついに首を取られてしまいました。

織田軍は勝どきをあげ、総大将が討たれた今川軍は戦意を失い、駿河に向かって撤退していきます。

こうして信長は、奇襲作戦の成功により、絶体絶命の危機を乗り越えることができました。

【次のページに続く▼】