長島の一向一揆を攻め滅ぼす
石山本願寺が信長と戦うようになって以来、伊勢長島の一向一揆は信長を悩ませ続けていました。
弟の信興が討ち取られたのを始め、討伐に失敗して追撃を受け、氏家直元や林通政らの武将たちが戦死するといった被害も受けています。
しかし前年に浅井・朝倉氏が滅んだことにより、信長はより多くの部隊を伊勢方面に動員できるようになっていました。
1574年の7月には7万の大軍と、伊勢に配置していた次男の織田信雄と滝川一益に動員をかけます。
そして伊勢・志摩水軍を率いる九鬼嘉隆に海路を封鎖させ、織田軍は伊勢長島を完全に包囲しました。
包囲が完了すると海陸の四方から一斉に攻撃を開始し、次々と砦を攻め落としていきます。
信長はこの攻撃で、一揆勢を殲滅させると固く決意していたようです。
一揆勢は追い詰められていくつかの城に籠もりますが、信長はそれらを包囲して兵糧攻めにします。
8月には大鳥居城の一揆勢の物資がつきはじめ、降伏を申し入れて来ますが、信長はこれを断固として拒否します。
そして8月2日の夜中に一揆勢が城を抜け出そうとしたところを発見し、男女を含めて1000人ほどを討ち取って殲滅しました。
さらに長島城でも同様に兵糧攻めに耐えきれなくなり、餓死者が続出するなどしています。
9月29日には長島城の一揆勢は船で城から逃げ出そうとしますが、信長はこれに鉄砲を打ちかけるなどして攻撃しました。
この時に一揆勢の指揮官が討ち取られるなどして多数が戦死し、これに怒った一揆勢は信長の本陣に斬り込みをかけます。
その結果、信長の兄・信広が討ち取られるなど、織田軍にも思わぬ損害が出ます。
この時に本陣に切り込みをかけた800人だけが長島からの脱出に成功し、大坂まで逃亡しています。
この結果を受け、信長は敵を城から一切出さない方針に切り替え、残る2城は幾重にも囲んだ上で、火攻めにして2万もの一揆勢を皆殺しにしました。
こうして長島における一揆勢は壊滅し、長島城は滝川一益に与えられています。
一向一揆は宗教を母体とした組織だけに、降伏したところで信長の配下にはならず、生かしておけばいずれまた信長に抗戦をしてくるのは明らかでした。
このため、信長は一揆勢は徹底的に殲滅するしかないと、合理的に判断していたものと思われます。
天下布武を成し遂げるにためは、流す必要のある血は容赦なく流していくと、この頃の信長は覚悟を固めていたと思われます。
時代を変えるという行いは、多くの流血を伴わずにはいられないもののようです。
石山本願寺を攻める
さらに翌1575年の3月には石山本願寺と、河内の高屋城の周辺に10万という大軍を送り込み、焼き討ちします。
そして両城の補給基地となっていた新堀城を攻め落とすと、高屋城主・三好康長が信長の側近である松井友閑を通じて降伏を申し入れてきます。
信長はこれを受け入れ、石山本願寺を孤立させました。
こうしてついに石山本願寺を攻め落とす好機を迎えますが、この時に武田勝頼が三河に侵入したとの報告を受け、やむなく信長はいったん兵を引くことになります。
この後に、本願寺顕如は三好康長と松井友閑を通じて信長に和睦を申し入れ、一時的にですがこれが成立しています。
勝頼との対戦
河内から京都に戻った信長は3万の軍を編成し、多数の鉄砲隊を配備し、徳川家康を支援するために三河へと向かいます。
この時に3千丁にのぼる鉄砲と、柵を築くための材木を多く輸送していました。
一方、武田勝頼はこの時、1万5千の兵を率いて三河・長篠城の攻略に取りかかっています。
長篠城を守る奥平貞昌は、かつて武田信玄が三河に侵入した際に降伏しており、武田方に属していたことがありました。
その後、信玄の死によって奥平氏は武田氏の将来に不安を持つようになり、家康に寝返っています。
家康はこの奥平貞昌を長篠城主に据え、対武田の最前線を守らせていました。
勝頼にとっては裏切り者ですので、これを討伐し、三河に再び拠点を得るために長篠城を攻撃していたのです。
これに対し、信長と家康は3万8千の連合軍を形成し、長篠城の救援と、勝頼の討伐に向かうことになります。
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