信友の失策を利用してこれを滅ぼす
1554年になると、信友は信長の暗殺を計画します。
しかしこれは尾張守護・斯波義統が信長に通報したために、実行されることはありませんでした。
この密告に怒った信友は、斯波義統の屋敷を襲撃して殺害しますが、これが信長に信友討伐の大義名分を与えることになりました。
斯波義統は実力を失っているとは言え、名分上は尾張の支配者であることに変わりはなく、これを家臣が殺害することは大罪にあたります。
信長は斯波義統の嫡男・義銀(よしかね)を保護し、彼の名の元に、主殺しの大罪人である信友討伐の軍を起こします。
信長は叔父の織田信光と協力し、信友を攻め滅ぼして清州城を手に入れました。
これにより、信長は織田氏の頭領の地位についたことになります。
この後、信長は新たに尾張守護となった斯波義銀を傀儡として操り、自身の尾張支配の正当化のために利用しました。
信長は旧来の権威を意に介さない性格だったと言われていますが、利用できるうちは利用する姿勢を見せており、後の足利義昭との関係においても同じことをしています。
信長からすれば、形骸化していた足利幕府の権威は、自身の勢力を拡大させる上で有効に活用できる道具だったのでしょう。
鉄砲を用いて今川氏の砦を攻め落とす
信長は家督を受け継ぐ以前から、新兵器である鉄砲に目をつけ、これを多数備えています。
1549年に鉄砲が伝来してからそのわずか6年後には、すでに500丁もの鉄砲を注文していたという記録があります。
これは信長の先見性を現すと言われていますが、同時期には今川氏が城攻めに鉄砲を用いていたという記録もあり、信長だけが特別に抜きん出ていた、というわけではないようです。
特筆すべきは、高価な兵器を500丁も揃えられるほどの経済力を、家督を継ぐ前の信長が既に備えていたことの方かもしれません。
織田家は代々尾張の津島という商港を根拠地としており、豊富な財力を備えていました。
信長はこの多数の鉄砲を用いて、1554年に今川氏が尾張に築いていた村木砦の攻略にとりかかります。
この砦は信長に味方する水野信元との交通を遮断する位置に築かれていましたので、連携を回復するために、なるべく早く攻略する必要がありました。
出陣するにあたり、自分の城の防御する戦力は、舅の斎藤道三に軍を派遣してもらってまかないます。
道三は信長の才能を高く評価しており、実父である信秀に代わって、信長の強力な支援者となっていました。
このおかげで信長は全軍を砦の攻略に向かわせることができ、海路を抜けて村木砦を包囲します。
そして鉄砲隊を三方に配置して間断なく銃撃を浴びせ、敵をひるませた上で手勢を突撃させ、わずか一日でこれを攻め落としてしまいました。
この戦いの顛末を配下の武将から聞いた斎藤道三は、「すさまじい男だ。こういうやつが隣国にいるのはやっかいなことだ」と感想を述べました。
信長の戦いの特徴
こうして信長は、戦闘の指揮官としての優れた才能と、その特徴を示しました。
尾張は平野部で、商港による経済力があり、かつ肥沃な土地柄だけに、兵員の質はそれほど高くありません。
体をそれほど使わなくとも、豊かな暮らしがしやすい環境にあるからです。
逆に言うと、生活環境が厳しい地域の農村部や山間部などの方が、強壮な人材が多くなり、兵員の質が高くなりがちです。
武田信玄や上杉謙信などの強勢は、そういった環境から生まれる兵士の質の高さにも支えられていました。
これに対し、信長は傭兵を多く雇ってもいましたので、兵士の質を均質に揃えづらく、個々の兵士の戦闘力に頼る戦い方をするのは難しい環境にありました。
このため、信長は鉄砲を数多く揃えるなどして、武装を強化することでこの欠点を補っています。
長槍も多数備えており、多くの訓練がなくとも、それなりに兵士たちが戦えるようにしていました。
刀槍を用いた近接戦では、個々の兵士の実力差が戦果に如実に反映されますが、射程を長く置くほどその差がなくなっていき、兵器の質に左右されるようになる、という戦闘の原則があります。
良質な兵器を揃えられるかどうかは経済力の有無にかかっており、信長は優れた経済力をそのまま戦力に転化することで、他の大名たちよりも優位な立場を獲得していきます。
このあたりの目のつけどころが、信長が近代的な人物だったと評価されるゆえんでしょう。
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