この事態への評価
寺院の焼き討ちという衝撃的な出来事であったことから、信長の破壊的な性格が現れた事件として、この延暦寺の焼き討ちはよく取り上げられています。
しかし、信長を非難する声明は当時の朝廷から出されておらず、江戸時代に儒学者の新井白石が「残虐な行いではあるが、延暦寺の兇悪を除き、天下に功があった」という評価を下しており、延暦寺の自業自得だという見方も多く存在しています。
お金儲けに励んだり、僧兵を集めたり、浅井・朝倉氏を助けて軍事に介入するなど、寺院のあるべき姿ではないという思いは、多くの人々に共有されていたようです。
この時期の延暦寺は売春を行う遊女の出入りを許していたという話もあるほどで、人々からの尊敬を集めることはできていなかったようです。
信長はこうした風潮を計算に入れた上で、延暦寺への攻撃に踏み切ったものと思われます。
しかし、甲斐の武田信玄はこのことで信長を非難しており、比叡山復興を旗印として上洛の口実にする、という形で利用しています。
なお、この時に送られてきた信玄からの非難の書状に対し、信長は「第六天魔王」を名のった返書を送った、という逸話があります。
これは宣教師ルイス・フロイスの史料にしか見当たらない記述であるため、真偽は不明です。
なお、信長は仏教を敵視していたという説がありますが、信長が嫌っていたのは延暦寺や石山本願寺のように、殺生を禁じられているにも関わらず、武装して自分に敵対したり、戒律を破って堕落していた僧たちだけで、仏教徒全体を敵視していたという事実はありません。
その証拠に、信長は各地の寺院を宿所にしていたという記録があり、京都の本能寺もそのひとつです。
「岐阜」の命名や「天下布武」という言葉の成立に関わったのは、信長の学問の師匠である沢彦(たくげん)という僧侶でした。
また、家臣の平手政秀が自害した後、菩提を弔わせるために寺を建立したりもしています。
武田信玄の侵攻
1571年になると、駿河を支配下に治めた武田信玄は、信長の同盟相手である徳川家康の領地への侵攻を開始しています。
家康は果敢に応戦するものの、歴戦の武将である信玄に苦戦し、少しずつ領地を削り取られていきます。
信長は信玄と同盟を結んでいたため、徳川領への侵攻をやめるようにと働きかけますが、信玄がこれを聞き入れることはありませんでした。
それどころか、1572年には信長との同盟を一方的に破棄し、東美濃に対しても侵攻を開始しています。
そして織田方の岩村城を攻略し、東美濃にも拠点を得ます。
こうして信玄との同盟関係も破綻し、信長の敵はさらに増える状況になってしまいました。
浅井長政と武田信玄、この両者との同盟が破れ、上洛を可能ならしめた外交関係が完全に崩壊したことになります。
浅井長政は既に小谷城に追い込んでおり、近江は平定されつつあったものの、信玄の包囲網への参加によって、信長は再び苦境を迎えることになりました。
足利義昭との対立
こうした情勢の変化を受け、信長と将軍・足利義昭との関係にも変化が訪れます。
義昭は信長に実権を握られ、将軍になっても何もできないことに不満を抱き、他の勢力に自分を担がせることを目論むようになっていました。
このため、浅井・朝倉・武田など、いくつもの勢力に密書を送り、信長への攻撃を促す動きを取っています。
彼らは独立した戦国大名で、将軍であっても意のままに動かすことはできませんが、この将軍からの要請を利用し、対信長の共同戦線を強化していきます。
信長はこの義昭の動きに業を煮やし、ついに信長を通さなければ一切の政治的活動を行わせない、とする制約を義昭に突きつけました。
義昭はこれに反発し、両者の関係はさらに冷え込んでいきます。
こうして義昭と信長の関係にも破綻が迫っていました。
義昭は信長の同盟相手である徳川家康にも、副将軍の地位を約束することで寝返りを要請しますが、家康がこれを受け入れることはありませんでした。
家康は信長が最終的には勝利すると信じ、自領の防衛と信長への支援を続けています。
信長と直接関わり続けた家康は、信長は支援をするに足る人物だと認めていたようで、信長の生涯に渡って友好関係を維持しています。
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