織田信長の「天下布武」 その道のりの全て

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松平信康の処刑

この年に同盟相手である徳川家康が、嫡男の松平信康と正室の築山殿を処刑する事件が発生します。

原因は築山殿が武田勝頼と内通していた事実が発覚したためで、これに父・家康との関係が悪化した信康も加わり、賛同していたものと見られています。

信康は信長の娘のお徳と結婚していましたので、家康は信長に娘婿を処刑してもよいかと相談しています。

信長は「家康の思うとおりにせよ」と答えて信康の処刑を許可しています。

かつては信長が信康の才能を恐れて処刑させたという説がありましたが、信長と家康は同盟関係であって主従関係ではないため、信長がそのような専横をするとは考えにくいです。

信長が理不尽なことを要請すれば、家康は同盟を打ち切って敵対する可能性もあったからです。

信長は一貫して家康との外交関係を重視しており、これを破綻させるような無茶な要求をすることは、まずありえないと言ってもいいでしょう。

このため、現在では家康が信康と築山殿と対立し、これが家中に亀裂を生むほど深刻なものとなったため、処刑せざるを得なくなったのではないかと見られています。

この事件の後も信長と家康の関係に変化は見られず、友好関係が維持されています。

別所長治の降伏

1580年になると、播磨で抵抗を続けていた三木城の別所長治が降伏します。

長治は切腹し、これを受けて羽柴秀吉は残る播磨の諸豪族も平定し、支配下に収めます。

この時に黒田官兵衛の主人であった小寺政職は追放され、黒田官兵衛は秀吉の所属に転じています。

さらに秀吉は但馬にも出兵して山名氏を追い払い、山陰地方への入り口を確保しました。

この後、羽柴軍は山陽・山陰の両方面に進軍し、毛利氏を追い詰めていくことになります。

石山本願寺の降伏

この年にはついに、10年に渡って信長に抵抗を続けた石山本願寺が降伏しています。

海路を遮断されたことで補給が追いつかなくなり、信長の包囲軍に追い詰められていたからです。

正親町天皇が勅命を下してこの和睦が成立し、本願寺顕如は大坂から退去し、信長に明け渡しました。

信長は大坂に城を築くことを計画していたと言われており、これは後に羽柴秀吉の手によって実現しています。

佐久間信盛の追放

信長は石山本願寺が降伏すると、その包囲軍を指揮していた重臣の佐久間信盛に折檻状を突きつけています。

信盛の石山本願寺攻略戦の際の働きの鈍さや、多くの領地を与えているにも関わらず、十分な将士を雇っていなかったことなどを責め、領地を没収して追放してしまいました。

信盛は信長が家督を継いだころから30年近くも仕えていましたが、この頃になると領地の大きさのわりに役に立たない存在になっており、信長は彼のことを疎ましく感じていたようです。

このために追放したのですが、これが家臣団の動揺を招き、2年後の謀反に結びついたのではないか、と言われています。

同時期に、同じく信長に長年仕えた老臣の林秀貞や、美濃三人衆のひとり、安藤守就も追放されています。

林秀貞が追放されたのは、かつて弟の信勝に与して信長に逆らったからだとされましたが、これは柴田勝家も同様であり、内心穏やかではなかったでしょう。

こういった動きによって、長く信長に仕えて高禄を得ていても、いつ信長に追放されるかわからないという恐怖感を、家臣たちは持つようになっていったものと思われます。

信長からすれば、織田軍が強大になったことで家臣たちが油断して怠けないよう、見せしめにする意図があったのかもしれませんが、その薬が効きすぎてしまったのかもしれません。

結果から見ると、これは信長の失策であったと言えるでしょう。

天下統一のために家臣の能力と効率のよさを重視するあまり、家中の和を乱してしまったことになります。

信盛は近畿を統括する立場についていましたが、追放後には明智光秀がその地位を継いでいます。

これが大きな災いの元になっており、もしも信盛を穏当に扱っていれば、信長の天下統一は達成された可能性が高かったでしょう。

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