織田信長の「天下布武」 その道のりの全て

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金ヶ崎の退き口

織田軍は越前の金ヶ崎まで侵攻しますが、そこで長政が信長との同盟を破り、北近江から越前に向けて進軍を開始したとの情報が届きます。

長政を信用していた信長は当初これを信じませんでしたが、同じ情報が複数の方面から寄せられるに至り、ついに事実なのだと認識します。

この寝返りについては、信長の方が先に盟約を破っていますので、長政に否はありません。

しかしながら過去のしがらみを優先し、信長とともに未来の天下統一を目指す道は選ばなかったことになります。

こうして信長は、北と南から挟み撃ちに合う危険に晒されることになりました。

これを受けて、信長は明智光秀や木下秀吉に殿を命じて浅井・朝倉軍の追撃を防がせる措置をとります。

そして自身はわずかな供を連れ、松永久秀に案内を命じ、京都を目指して急ぎ撤退しました。

道中で地元の豪族に命を狙われそうになりましたが、松永久秀の交渉によって味方に引き入れて切り抜け、京都まで無事に帰還しています。

織田軍全体も、殿を務めた光秀や秀吉らの活躍もあって、さほどに大きな損害を出さずにすみました。

しかしこうして、信長は妹婿である長政と争うことになってしまいます。

これが信長のつまづきと、苦難の始まりとなりました。

それは過去の歴史にこだわる者たちとの戦いだった、とも言えるでしょう。

姉川の戦い

北近江の地が敵に回ると、美濃と京都の間の交通が遮断されてしまうため、信長にとっては浅井氏への対応が最優先課題となります。

信長は本拠地である岐阜に戻って体制を整えると、6月には北近江に侵入し、街道沿いの重要拠点である横山城を包囲します。

この横山城は姉川を挟んで浅井氏の本拠である小谷城と向かい合っており、浅井氏にとっても重要な拠点でした。

浅井長政は横山城救援のため5000の兵を率い、朝倉景健率いる8000の援軍とともに、織田軍が待ち構える姉川方面へと進軍しました。

この時、信長の元には同盟相手の徳川家康の軍勢が合流しており、織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍の決戦が行われる情勢となりました。

この時の織田軍の実数は不明ですが、徳川軍は5000程度であったと言われています。

両軍は6月28日に姉川付近で会敵し、激戦となります。

互いに譲らず、一進一退の攻防となりますが、家康は敵の陣形が伸び切っているのを察知し、重臣の榊原康政に命じて戦場を迂回させ、朝倉軍の横腹をつかせます。

これによって朝倉軍が崩れ、浅井軍もやがて陣を乱して敗走しました。

この敗戦によって浅井・朝倉連合軍は1000人を超える死傷者を出し、長政の重臣・遠藤直経や、実弟の浅井政澄が戦死するなど、甚大な被害を受けています。

朝倉氏も真柄直隆らの剛勇の士を失い、この戦いは織田・徳川連合軍の完勝に終わりました。

信長は余勢をかって横山城を降伏させ、小谷城にも迫りますが、山上にあって防御が堅いこの城を一度に攻め落とすのは困難と見て、兵を引いています。

横山城には木下秀吉を入れ、浅井氏の監視を命じました。

こうして北近江の情勢は一応の落ち着きを見せますが、今度は休む間もなく摂津方面で攻撃を受けることになります。

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