織田信長の「天下布武」 その道のりの全て

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信長の方面軍

この時期になると、信長は武将たちに数万の大軍を預けて戦いをさせるようになっており、自ら戦場に向かう機会はほとんどなくなっていました。

尾張や美濃に所領を持つ嫡男・織田信忠には主に武田勝頼への対応にあたらせ、伊勢の滝川一益にこれを補佐させています。

越前に所領を与えた柴田勝家には、北陸の上杉氏討伐を命じています。

近畿の各地に所領を与えた佐久間信盛には、大坂の石山本願寺の討伐を命じています。

南近江に領地を持つ明智光秀には、丹波の波多野秀治の討伐を命じています。

そして羽柴秀吉には北近江と播磨(兵庫県南部)の地を与え、毛利輝元の討伐を命じています。

この中で最大の強敵は毛利輝元であり、このために羽柴秀吉には、与力(信長の直属でありながら、他の武将の指揮下に入る立場の武将)も含めて、最大級の兵力が与えられていました。

中国地方の攻略

羽柴秀吉は信長から中国地方の攻略を命じられ、1577年ごろからこれに取りかかっています。

そして播磨の豪族・小寺氏に仕える黒田官兵衛の協力を得て、播磨の諸勢力を勧誘して味方につけ、その年のうちに織田氏の勢力下に組み込むことに成功しています。

この功績によって、秀吉はようやく先の北陸での軍令違反を信長から許されたようです。

しかし毛利側も調略による切り崩しを行っており、1578年の3月になると、播磨で大きな勢力を持っていた、三木城の別所長治が謀反を起こします。

さらに10月には摂津・有岡城の荒木村重もまた、毛利側に寝返ります。

これによって毛利輝元・石山本願寺・荒木村重・別所長治が連携して信長に対抗する情勢になっています。

これら摂津・播磨方面の敵には、信忠と秀吉の軍勢に討伐を担当させました。

鉄甲船による毛利水軍の打倒

信長は伊勢水軍を率いる九鬼嘉隆に、毛利水軍を打倒する策を練るようにと命じていました。

これを受けて九鬼嘉隆は、鉄甲船の建造を信長に提案します。

これは巨大な軍船の周囲に鉄板を張って防御力を高め、大砲で武装して攻撃を行うというものでした。

九鬼嘉隆が6隻を、滝川一益が1隻を建造したと言われています。

そしてこれらの鉄甲船で大坂湾に侵入し、毛利水軍と戦って討ち破りました。

毛利氏の水軍は主に瀬戸内海の海賊・村上水軍が構成していました。

この村上水軍は焙烙玉(ほうろくだま)による敵船への放火を得意戦術としています。

焙烙玉とは、陶器の中に火薬をつめ、導火線に火をつけて敵の船に投げ込むという、手榴弾のような兵器でした。

鉄甲船は周囲に貼り巡らした鉄板によってこの攻撃を受け付けず、一方的に大砲を撃ちかけ、毛利水軍の船を沈めていきました。

こうして毛利水軍を撃退し、大坂湾の制海権を確保します。

この戦勝によって海からの石山本願寺への補給路を断つことに成功し、いよいよ長年抵抗を続けてきた一向宗の本山を追い詰めることができました。

波多野秀治の降伏と荒木村重の逃亡

1579年の夏頃には、明智光秀が丹波の波多野秀治を降伏させています。

信長はこれを処刑させ、光秀に丹波を、細川藤孝に丹後(京都北部)をそれぞれ領地として与えました。

そして9月には摂津の有岡城から、毛利氏からの援軍を得られずに追い詰められた荒木村重が、妻子や家臣を見捨てて逃亡してしまいます。

家臣たちが尼子城に逃げた村重を追い、信長に降伏するようにと促しますが、村重がこれを受け入れなかったため、有岡城に残る妻子たちは処刑されてしまいました。

この時に、先に荒木村重を説得するために有岡城に入り、捕らわれていた黒田官兵衛が救出されます。

信長は黒田官兵衛が寝返ったものと思い、人質にとっていた官兵衛の長男の処刑を命じていましたが、竹中半兵衛がこの子どもを密かにかくまっていたために、無実の罪で殺害する過ちを犯さずにすみました。

この時の子どもが、後に関ヶ原の戦いで活躍する黒田長政です。

こうした情勢の変化により、備後(岡山県)の領主・宇喜多直家は毛利方から織田方に寝返り、中国地方の戦況も織田方の有利に傾いていきます。

短期間で次々と各軍団が敵を撃破していく状況が続いていますが、この頃になると、信長の採用した軍団制が機能するようになっていたことがわかります。

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