織田信長の「天下布武」 その道のりの全て

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上洛戦

信長が上洛するにあたり、障害となるのが南近江を支配する六角義賢と、京都周辺を抑える三好三人衆でした。

六角義賢はかつて義昭を保護していたのですが、やがて三好氏側に寝返っており、信長の上洛に抵抗する姿勢を見せていました。

このため信長は1568年の9月に、6万を号する大軍を率いて南近江に攻め込みます。

そして数日で六角義賢の居城である観音寺城を攻め落とし、大名家としての六角氏を滅亡させます。

領地を失った六角義賢は、忍びの里として知られる甲賀に逃れ、以後は一向一揆などと協力しつつ、信長に対して抵抗を続けることになります。

さらに大津まで信長が進軍すると、三好三人衆は信長に降伏したり、城を放棄して撤退するなどし、戦わずしてその軍勢は崩壊してしまいました。

信長の電光石火の南近江の攻略戦が、とても抵抗しきれないという印象を敵に与えたのでしょう。

こうして信長は軍を発するや、わずか一ヶ月ほどで入京することができました。

義昭が将軍となる

信長の支援を受けて京都に入った義昭は、征夷大将軍に任官され、足利幕府の15代将軍となります。

そして信長への返礼のため、副将軍か管領という、室町幕府における最高の地位を与えることを提案しますが、信長はこれを断っています。

信長は形骸化した足利幕府の官職につくことは望んでおらず、その支配体制に組み込まれることを嫌っていたようです。

代わりに尾張守護・斯波氏と同等の礼遇を受けることと、当時の日本最大級の商港である堺に代官を置く権限などを要求しました。

信長は既に尾張から守護の斯波義銀を追放していましたので、尾張支配の正当な権限を得る上で、斯波氏並の礼遇を要求したものと思われます。

このあたりの信長の立ち回りからは、名分を求めず、実効性のある権限だけを欲していた様子がうかがえます。

家臣の狼藉を厳しく取り締まる

信長は上洛した際に、たとえ一銭(小銭)でも盗んだものは処罰する、と兵士たちに厳しく通達していました。

信長は自らが新しい秩序の作り手になると決意しており、家中の隅々にまでその担い手となることを求めていました。

ある時、織田軍の兵士が京都で、側を通りかかった若い女性にちょっかいを出していたのですが、それを信長が見つけると、自らの手でこれを切り捨てた、という事件が発生しています。

信長の領地ではもともと犯罪の取り締まりは厳しかったのですが、首都である京都にまで到達したことで、綱紀の粛清をより強固に行うようになったのだと思われます。

こうして信長は自らの手によって世の乱れを正し、乱世を終わらせる覚悟を持っていることを、内外に示しました。

また、織田軍は狼藉者ではないと表現することで、京都の治安を回復し、公家や町人たちからの支持を獲得する狙いもあったでしょう。

このあたりの信長の政治感覚は、実に優れたものでした。

松永久秀が従属する

松永久秀は三好長慶の重臣で、畿内で権勢を振るっていた人物です。

しかし長慶の死後は三好三人衆と対立し、不利な状況に置かれていました。

そのため美濃を攻略中の信長と早くから連絡を取っており、その上洛を要請しています。

信長が上洛を果たすと従属を約束し、大和(奈良)一国を切り取り次第とする、という約定を受け取っています。

久秀は足利義輝の暗殺にも関与しており、将軍となった義昭は、兄の仇である久秀を処罰するようにと信長に要請しますが、これに耳を貸さず、信長は久秀を家臣として用いました。

この頃の信長はまだ上洛したばかりで近畿での基盤が弱く、古くから大和に拠点を持つ久秀には、まだ利用価値があるとみなしていたのでしょう。

他にも摂津(大坂)守護の池田親正を従属させるなどして、近畿中央部での勢力を拡大していきます。

本圀寺の変と、畿内における勢力の拡大

1569年の1月には、信長は美濃に軍勢を引き上げていました。

この隙をつき、撤退していた三好三人衆が斎藤龍興らの浪人衆と結託し、京都に攻め込んできます。

龍興は美濃からの追放後、三好氏の支援を受ける立場になっていたようです。

以後も各地に出没し、信長への抵抗運動を続けています。

この際には、京都の留守居役として残しておいた諸将が活躍し、この襲撃の撃退に成功しています。

これは襲撃された足利義昭の宿所の名を取って、「本圀寺の変」と呼ばれています。

この時に活躍したのが、明智光秀や細川藤孝らの義昭の家臣と、荒木村重や池田親正らの、信長に従属していた摂津の武将たちでした。

信長は京都が襲撃されたと聞くと、ただちに軍勢を集め、わずか2日で京都に到着するという離れ業を見せます。

これには、信長がかねてから岐阜の城下に家臣たちを集合して住まわせていたことが影響しています。

信長は撃退の余勢をかって摂津周辺の離反者たちの城を攻め落とし、処刑するなどして情勢の安定化を図ります。

そして三好三人衆と結託していた堺に2万貫という大金を要求し、これを支払わせて服属させています。

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