織田信長の「天下布武」 その道のりの全て

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長篠城の防衛戦

長篠城を守る奥平貞昌は、わずか500の兵力しか持っていませんでしたが、事前に200丁もの鉄砲が配備されていたこともあって、30倍の武田軍の攻撃を持ちこたえます。

しかし、やがて兵糧庫が焼失したことによって窮地に陥り、5月14日ごろには落城寸前にまで追い詰められていました。

この頃には既に信長が三河の岡崎城に到着しており、奥平貞昌から送られてきた使者・鳥居強右衛門(すねえもん)に、間もなく救援に向かうので、あと数日耐えるようにと通達させます。

強右衛門は長篠城への帰り道で武田軍に捕まってしまい、「援軍はやってこないからあきらめろと城に伝えれば、命を助けてやる」と勝頼に告げられます。

強右衛門はそれを受け入れたふりをして、長篠城の近くに戻ります。

そしてそこで、「あと二、三日で数万の援軍がやってくるから持ちこたえろ」と城内に告げました。

勝頼はこれに怒り、強右衛門を処刑してしまいました。

落城寸前だった長篠城の奥平軍は、強右衛門の言葉を聞いて士気を取り戻し、ついにこれを守り通しています。

信長は後にこの強右衛門のふるまいを聞いて感銘を受け、その忠義を顕彰するために立派な墓を建立させています。

また、その子孫は奥平家によって厚遇されました。

野戦築城

やがて強右衛門の言葉通り、織田・徳川連合軍は5月18日には長篠城の南にある設楽原に着陣します。

信長はここで運んできた材木を使って、設楽原に野戦築城を行います。

設楽原は幾筋もの川と、小高い丘が点在する土地でした。

信長はこの川を天然の堀とし、丘に築いた柵や土塁を臨時の城壁とすることで、防御力の高い陣地を構築していきます。

そして柵の奥に鉄砲隊や槍・弓隊などを配置し、柵の奥から一方的に武田軍を攻撃できる体勢を作り上げます。

勝頼の進軍

織田・徳川連合軍が接近していると知った勝頼は、重臣たちを集めて軍議を開きます。

この時、馬場信房や山県昌景、内藤昌豊ら信玄の代から仕える重臣たちは、信長自ら大軍を率いて来ていることから、この戦場からの撤退を進言します。

織田軍は武田軍の倍の兵力で、そのうえ家康も加わっているのですから、この判断は妥当だと言えるでしょう。

しかし勝頼はこれを受け入れず、織田・徳川連合軍への攻撃が強行されることになりました。

そして長篠城への抑えとして3千の兵を残し、残る1万2千を設楽原へと向かわせます。

勝頼は自身と武田軍の強さを過信する傾向にあり、少数であっても織田・徳川軍を撃破することは可能だと思っていたようです。

設楽原では織田・徳川軍が野戦築城をすませて待ち構えており、その危険性を察知した馬場信房らの諸将は、死を覚悟して水盃を交わしたという話が残っています。

信長からすれば、野戦築城をしたところで勝頼が向かってこなくては効果を発揮できないわけですが、勝頼が進軍してきたおかげで、武田軍に勝利する絶好の好機を得たことになります。

信長はこれを「天の与えた機会だ」と述べたそうです。

信長は生涯を通してこうした幸運に恵まれていますが、運に恵まれるのも名将の条件のひとつであり、信長は多分にその要素を満たしていました。

長篠城攻撃軍への奇襲

信長は設楽原で武田軍を迎え打つ一方で、家康の重臣・酒井忠次が提案した、長篠城包囲軍に対する奇襲作戦を採用しています。

これを受け、酒井忠次は4000の兵を率いて5月20日の夜間に出陣します。

そして武田軍の監視網をくぐり抜け、長篠城攻めの拠点である鳶ヶ巣山(とびがすやま)砦の後方にまで回り込み、夜明け頃にこれを強襲しました。

この奇襲は大成功し、酒井忠次は付近にあった武田方の砦をすべて攻め落としました。

そして長篠城を打って出た奥平軍と合流して武田軍を追撃し、勝頼の叔父である河窪信実を討ち取るなどの大きな戦果をあげています。

こうして酒井忠次は長篠城を救援した上、武田軍の退路を遮断することにも成功しました。

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