織田信長の「天下布武」 その道のりの全て

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その後

明智光秀は信長を討ち取った後、京都に滞在していた信忠をも討ち取り、織田家の嫡流を壊滅させます。

その後で京都や近江を占拠しますが、光秀に味方しようとする武将はほとんどおらず、すぐに孤立してしまいます。

光秀は信長を討つだけの大義名分を持っておらず、事前に根回しもしていなかったことから、縁戚関係にある細川藤孝にすら味方してもらえませんでした。

信長は世の人々から天下を統一するにふさわしい英雄として認知されており、これを信長に引き立てられて大名にしてもらった光秀が殺害するのは、悪事以外の何物でもありませんでした。

一方で、備中高松から急ぎ畿内に戻った羽柴秀吉の元には、たちまちのうちに3万を超える大軍が集結し、光秀打倒のために京都へと進軍してきます。

光秀はこれを京都の山崎で迎え撃ちますが、1万3千しか兵を集められず、圧倒的な戦力差の前に敗れ去っています。

そして坂本城に向かって撤退する途中で、落ち武者狩りの農民に襲撃され、竹槍で脇腹を突かれて死亡しました。

こうして光秀は、信長を討ってからわずか12日後に滅亡しており、謀反を起こした理由については、語らずじまいで終わりました。

このため、動機については様々に推測されていますが、ともあれ、信長は自分が引き立てた重臣の手によって、天下統一を阻まれたことになりました。

これは先に述べた通り、配下の武将に独立した大きな軍勢を与えていたことの弊害が出たのだと言えるでしょう。

秀吉と家康が継承する

信長が完成まであと一歩のところまで迫っていた天下統一の事業は、羽柴秀吉が引き継いで完成させています。

つまりは信長の事業の果実は、家臣に簒奪されてしまったことにもなります。

信長の孫の秀信は、秀吉の元で成人し、後に岐阜の大名となっていますが、秀吉の一家臣という立場でしかありませんでした。

後に秀信は関ヶ原の戦いの後に病死し、信長の嫡流は絶えています。

大名としての織田家は、次男の信雄が5万石の大名として生きのびており、他にも弟の長益の家も小規模な大名家として存続しています。

こうして信長の代で激しい膨張を見せた織田家の勢力は、その死後には、元の尾張の一領主の時代と同じくらいの規模にまで縮小してしまったことになります。

ここに信長の生涯の壮大さと、その儚さを見ることもできるでしょう。

秀吉は織田家から天下を簒奪したことを気に病んでいたらしく、晩年には信長に責められる夢を見た、という記録が残っています。

秀吉の豊臣政権が滅んだ後には、信長の生涯の盟友であった家康が天下を再統一し、260年にもおよぶ安定政権を構築しました。

織田家は衰退したものの、信長が切り開いた戦国乱世の終結への道は、秀吉と家康という、信長と深い関係にある両者の手によって完結したことになります。

信長は非業に倒れましたが、何十何百という勢力に日本各地が分断され、互いに争い続け、世を混乱させていた時代に幕を閉じるため、手段を選ばずに必要なことを成し、新しい秩序を作り上げるために戦い抜いたその功績は、決して消えることはないでしょう。

現実の中から新しい可能性を見出し、それを最大限に拡張させ、世の中のあり様を変えてしまう人間を英雄と呼ぶのだとすれば、信長はまさに英雄と呼ばれるにふさわしい人物であったと思われます。