斎藤道三の死
斎藤道三は美濃(岐阜県)を守護の土岐氏から奪い取り、その領主となっていた人物です。
そして娘の濃姫を信長と結婚させており、義理の父になっています。
婚姻後に信長と正徳寺で会談し、その際に信長が見せた軍備と、意外に礼儀正しいふるまいを見て、才能と将来性を高く買っていました。
「将来俺の息子たちは、信長の家臣にされてしまうだろう」と述べたとも伝わっています。
信長が家督を継いでからは何度も尾張に援軍を送るなどしており、まだ勢力が安定していない信長にとっては、大事な支援者でした。
しかし道三は1556年に、長男の斎藤義龍に討たれてしまいます。
道三は義龍と折り合いが悪く、愚鈍な息子だとして蔑んでいました。
このために不仲となり、ついに義龍を廃嫡してその弟に斎藤家を継がせようとしたため、義龍に反乱を起こされてしまいます。
義龍は道三が思っているような愚かな人物ではなく、1万7千もの軍勢を集めて道三に戦いを挑んできます。
これに対し、既に隠居していた道三は3千程度の戦力しか集められず、敗北は必至となります。
道三はこの時に美濃の譲り状を書いて信長の元に送らせました。
そして義龍と長良川付近で戦って敗れ、戦死しています。
信長は軍を率いて道三の救援に向かいますが、義龍の軍勢に阻まれてこれを果たせず、むなしく尾張に帰還しています。
しかし、信長は道三の娘の濃姫を正室にしており、道三から美濃の譲り状を受け取ったことで、将来の美濃侵攻の大義名分を得たことになります。
死にゆく道三の譲り状には、即時の実効性はありませんでしたが、信長が将来勢力を伸ばす際の役に立つようにと配慮して、そのような書状を出したのでしょう。
これは後に信長に大きな利益を与えることになりますが、そこに至るまでにはまだ多くの敵がおり、長い道のりが待っていました。
弟・信勝との争い
信長の弟の信勝は、父の死後にその居城であった末森城を受け継ぎ、柴田勝家や林通具・林秀貞ら、信秀の代から仕えていた老臣たちから支持を受けていました。
信長は素行が悪く、行儀作法などを無視することが多かったのですが、反対に信勝は礼儀正しく、聡い性格だったので、老臣たちからすると安心して仕えやすい相手だったのでしょう。
1556年に信長の支援者である斎藤道三が死去したのを好機ととらえ、信勝一派は信長への謀反を実行に移します。
しかし柴田勝家が信長と戦って敗れ、林通具が戦死するなどして、信勝派は窮地に陥ります。
信長は軍勢を率いて末森城を包囲しますが、信長と信勝の母である土田御前が取りなしたことで、信長は弟を許して包囲を解きます。
しかし翌年になると、信勝は再度謀反を企みます。
この動きは信長に内通した柴田勝家に密告され、ただちに信長の知ることになります。
この頃になると、信勝はお気に入りの若衆を重用するようになっており、老臣たちの心が離れてしまっていたようです。
信長は病気になったと称して信勝を清洲城におびき寄せます。
信勝は事の真偽を図るため、柴田勝家に相談しますが、「信長に譲り状を書かせてしまえば尾張はあなたのものです」とそそのかされて清州城を訪れます。
そして信長の側近である池田恒興らによって殺害されました。
信長は身内には甘い処置を行う傾向にありましたが、さすがに2年続けて謀反を企む弟の行動を見逃すわけにはいかなかったのでしょう。
こうして家中の混乱を収拾し、新たに柴田勝家や林秀貞も服属させ、尾張の統一は進行していきます。
なお、信勝の遺児・信澄は信長に保護されて柴田勝家に預けられ、成人後は一門衆の一員として厚遇されています。
尾張統一を果たす
信長は弟の勢力を取り込むことで尾張の南半分を制し、続いて残る北半分の支配を狙っていました。
この地域は岩倉城主・織田信賢が支配しています。
信賢の勢力は信長とほぼ互角でしたので、信長は北尾張で独立勢力となっていた犬山城主・織田信清に姉を嫁がせて味方に引き入れます。
そして1558年には2000の軍を率い、浮野の地で信賢と決戦を行いました。
この時に信賢は3000の兵を動員していましたので、信長は当初苦戦を強いられます。
しかし戦闘の最中に同盟を結んだ信清が1000の援軍を率いてかけつけ、これと協力して信賢軍を討ち破り、1200の敵兵を討ち取るほどの大勝を収めました。
そして翌1559年には信賢の本拠である岩倉城を包囲し、降伏させています。
こうして信長は尾張全土をほぼ手中に収め、25才にして初期の戦略目的であった尾張の統一を成し遂げました。
しかしその翌年には、重大な危機に見舞われることになります。
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