野田城・福島城の戦い
信長の主力が北近江に出払った隙をつき、四国に撤退していた三好三人衆が摂津に舞い戻ってきます。
調略によって摂津守護・池田親正を追放し、重臣の荒木村重を寝返らせて摂津に拠点を得ます。
そして川に囲まれたデルタ地帯に野田・福島の二城を築き、織田軍に対抗する姿勢を見せました。
この挙兵に応じて細川昭元や、鈴木孫一の率いる雑賀衆などの傭兵部隊が合流し、その兵力は1万3千にまで膨れ上がります。
これを受け、姉川の合戦で勝利したばかりの信長は摂津に駆けつけ、7月中には野田・福島城に近い天王寺に布陣しています。
そして諸隊がその周辺に集結してゆき、信長はたちまち3万の大軍を編成するに至ります。
将軍・足利義昭も自ら2000の軍を率いて後方に着陣しています。
この時はまだ信長と義昭の関係は良好であり、三好三人衆は兄の仇であったことも、この参戦につながったようです。
軍の展開が終わると織田軍は攻撃を開始し、多数の火縄銃や、攻城用の口径が大きな大鉄砲を用いて三好軍に損害を与えました。
織田軍にはさらに2万の雑賀・根来衆が援軍として加わり、彼らは3千もの鉄砲を所持していたことから、この時代としては最大級の火力が同地に集結したことになります。
三好軍も鉄砲を用いて応戦し、「日夜天地も響く」と言われるほどの銃声が激しく鳴り渡りました。
数に勝る織田軍は、浦江城や畠中城などの支城を攻め落として戦いを有利に進めます。
恐れをなした三好三人衆は信長に和睦を申し入れますが、優勢を確信していた信長はこれを拒否して攻撃を続行します。
しかし9月になると、それまで中立を保っていた摂津の石山本願寺が突如参戦し、織田軍に向かって攻めかかってきます。
信長はこれに仰天したと言われており、この動きはまるで予想していなかったようです。
これまでに石山の地を欲し、譲るように持ちかけたりはしていたようですが、交戦したことはなかったからです。
信長は勝利を目前にしていましたが、石山本願寺の加勢によって、思わぬ膠着を強いられることになります。
そうした中、石山本願寺からの要請を受けた浅井・朝倉連合軍が、信長の背後から奇襲をするべく、北近江を出発して行軍を開始します。
森可成の奮戦
浅井・朝倉軍が進発したと知った宇佐山城主・森可成(よしなり)は、信長の弟である織田信治と共に、この進軍を阻むべく出陣します。
宇佐山城は近江の大津あたりに信長が築いた城で、浅井・朝倉軍の進撃を阻むために用意されました。
森可成は信長が尾張の一領主の時代から仕えている重臣で、尾張統一戦や、美濃への侵攻の際にも活躍しています。
可成は街道の要所である坂本を押さえ、ここで浅井・朝倉軍を迎え撃ちます。
この時の可成の兵力は1000ほどで、浅井・朝倉軍は3万だったと言われています。
可成は勇猛で知られる武将で、この時にわずか30分の1という兵力でありながらも、9月16日の緒戦に勝利し、浅井・朝倉軍の進撃を阻むことに成功しています。
しかし、直後に本願寺顕如の要請を受けた比叡山の僧兵が敵対し、可成はさらに膨らんだ浅井・朝倉軍と、9月20日に再度対戦することになります。
そしていったんは敵の先鋒・朝倉景鏡の軍を押し返すなど健闘しますが、別働隊に側面に回られ、横合いから攻撃をしかけられてついに軍勢を崩されます。
森軍は数百の死傷者を出して壊滅し、可成と信治は戦死してしまいました。
やがて浅井・朝倉軍が迫っていることが信長に知らされ、包囲されつつある状況を認識します。
もしも可成が浅井・朝倉軍の進撃を阻んでいなければ、織田軍は壊滅の危機に陥っていたことでしょう。
信長は織田軍を守ろうとして犠牲になった可成のために、後にその遺児たちを引き取って手元で大事に養育しています。
そのうちのひとりが、信長の小姓として有名な森蘭丸です。
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