織田信長の「天下布武」 その道のりの全て

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信貴山城の攻防

久秀は築城の名人として知られており、彼の築いた信貴山城の守りは固く、10月5日に行われた緒戦では、松永軍は織田軍の攻撃を跳ね返すことに成功しています。

そして久秀は家臣の森好久を本願寺に派遣して援軍を求め、彼は200名の鉄砲隊を引き連れて戻ってきます。

しかしこの森好久は、信貴山城の攻略に参加していた大和守護・筒井順慶を通じて織田軍に寝返っていました。

森好久は信貴山城に何食わぬ顔をして戻りますが、久秀はこうして城内に内通者を抱えることになってしまいます。

10月9日には織田軍の2度めの攻撃が始まり、筒井順慶が先鋒を務めます。

松永軍は善戦し、またも筒井軍を押し返しますが、この時に森好久が謀反を起こし、城内の三の丸から火の手が上がります。

これによって松永軍は浮足立ち、混乱して自壊していきます。

やがて筒井軍が城内に侵入し、追い詰められた久秀は、嫡男の久通とともに自害して果てました。

自ら城に放火し、雄壮な天守閣を備えた信貴山城は燃え落ちています。

一説には久秀が爆死したとも言われていますが、史実ではないようです。

「久秀が死に臨んで城に火を放ち、平蜘蛛(という有名な茶器)を打ち砕いた」という記述が、いつの間にか「平蜘蛛もろとも爆死した」という話にすり替わってしまったようです。

ちなみに、本当に爆発によって遺骸が吹き飛んでしまった人物もいるのですが、そのことについては後に語られます。

丹波の攻勢

松永久秀が自害したのと同じ頃、丹波の要衝である亀山の城主・内藤定政が病死します。

明智光秀や細川藤孝らはこの機に乗じて丹波の攻略を進めます。

そして亀山城や籾井城などの主要な城を攻略し、波多野秀治を山奥へと追いやりました。

信長はさらに妹のお犬の方を丹波守護・細川昭元の正室とし、統治の安定を図ります。

こうして大和と丹波の二ヶ国が信長の手に落ち、近畿の情勢は安定に向かっていきました。

右大臣に就任する

この1577年の11月に、信長は従二位・右大臣に昇進しています。

これが信長が就任した最後の官位となったため、信長は後の世から織田右府や織田右大臣家などと呼ばれることになります。

右大臣の上には通常は左大臣しかなく、信長はほぼ最上位の官位に到達したことになります。

右大臣はかつて鎌倉幕府を開いた源頼朝が就任していた官位でもあり、武家としてこの地位を得ることには、政治的に大きな意味がありました。

信長はこれ以上の官位の上昇を望んでいなかったようで、朝廷からの要請があってもなかなか公的な地位につくことはありませんでした。

高い地位にはそれにともなう煩雑な儀礼が伴うため、まだ天下統一のために忙しく働いていた信長にとっては、非常に煩わしい側面も持っていました。

このため、信長は1578年に唐突に右大臣と右近衛大将を辞任しており、以後は「万国が平定されたなら」という条件をつけ、官位への就任を拒んでいます。

もはや官位の権威を必要としないほどに、信長の実力が高まっていたことの現れでもあるのでしょう。

上杉謙信の死

1578年の3月には越後で上杉謙信が病にかかって急死し、これによって上杉氏は混乱に陥ります。

この時の謙信の病は、脳卒中だったのではないかと言われています。

謙信には実子がおらず、後継者を定めていなかったため、養子たちの間で相続争いが起きます。

この結果、越後では大規模な内乱が勃発してしまいました。

信長はこの機を見逃さず、飛騨(岐阜県北東部)経由で軍勢を越中(富山県)に攻め込ませます。

そして越前の柴田勝家には加賀と能登の攻略を命じ、北陸における情勢は織田方の優位に傾きました。

こうして上杉氏や波多野氏の勢力が大きく衰退し、松永久秀が滅亡したことから、包囲軍は再び瓦解しています。

この結果、信長は武田信玄と上杉謙信という、戦国時代の中期を代表する両武将とは、直接戦わないままで終わりました。

果たして直接対決をしていたらどうなっていたか、興味深いところではありますが、残念ながらこれが実現することはありませんでした。

このことが、もしも戦っていたら天下を制した信長にも勝てたかもしれないと人々に思わせ、謙信と信玄の神格化につながっていった側面もあると思われます。

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