藤堂高虎 8人の主君に仕え、伊勢32万石の大名にのしあがった「忠義の武将」の生涯について

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家康の屋敷を建築する

紀州での働きが認められたようで、1586年には、秀吉に臣従するために上洛する東海道の大大名・徳川家康の屋敷の建築を秀長から任されています。

この頃には秀吉は朝廷の最高位である関白にまで上り詰め、天下統一のために家康を臣従させようと手を尽くしていました。

そしてようやく家康が重い腰を上げて上洛を決意すると、それを出迎えるための屋敷を設けることにしたのです。

したがって、この建築の役目は政治的に重要なものであり、高虎は抜擢を受けたことになります。

屋敷の建築の際に、高虎は渡された設計図の欠点を見抜き、独断で工事の内容を変更します。

この欠点とは、屋敷の一角に賊が入り込みやすい箇所があるという、警備上のものでした。

命令を違えて設計を変更したため、余分にかかった費用は自腹で払い、思うとおりに工事を実行します。

後にこれを聞き及んだ家康に招かれ、どうして独断で、しかも自分で費用をまかなってまでして設計を変更したのかとたずねられます。

高虎はこれに対し「天下の家康様に警備の不備からご不慮があれば(ケガをしたり死亡したりすれば)、主君の秀長と、そして秀吉様の面目を失わせることになるので、自分の一存で変更したのです」と述べました。

そして「もしもご不興をかったのであれば、容赦なく手討ちにしてください」と続けます。

これを聞いた家康は高虎に感謝し、単なる建築の技術だけでなく、政治的な配慮もできる感覚の持ち主であることに感心したようです。

こうして高虎は秀吉や秀長だけでなく、家康にも強い印象を与えることになりました。

このような高虎の性格が、権力者の移行期にも作用することになります。

九州征伐で大きな功績をあげる

1587年になると、秀吉は天下統一事業の完遂のため、九州征伐を行います。

この時の九州は島津氏がその過半を制しており、その統一を目指して邁進していました。

この勢いを抑え、九州を豊臣政権の支配下に置くのが秀吉の狙いでした。

20万という大軍を動員し、数で勝る秀吉軍は戦況を有利に進めていきますが、やがて日向(宮崎県)高城の城主・山田有信が激しく抗戦したために、しばらく戦況が膠着します。

これを見た島津軍は、勇将として名高い島津義弘を大将とした3万5千の大軍を動員し、高城の救援に向かいます。

この動きを予測していた秀長や黒田官兵衛は、途中にある根白坂に空堀や板塀などを築いて防御を固め、1万の軍を配置していました。

根白坂は高城に向かうためには必ず通らなければならない道だったので、この地点で戦いが起こるのは確実なことでした。

やがて島津軍が根白坂に到着し、激しい戦いが開始されます。

ここでは局地的に3万5千対1万の戦いとなり、島津軍は大将の義弘自らが先頭に立って奮戦したため、やがて少数の豊臣軍は窮地に追い込まれていきます。

これを知った秀長の本隊が救援に赴こうとしますが、軍監の尾藤知宣が島津軍の勢いを恐れ、根白坂の部隊は見捨てるべきだと強く主張し、秀長はやむなく進軍を停止します。

軍監は秀吉直属の参謀的な存在で、その発言力は作戦を決める上で大きなものでした。

しかし、根白坂を見捨てれば高城の攻略にも失敗する危険がありますし、何より奮戦する味方を見捨てるという選択は武将たちにとってありえないものでした。

このため、高虎は500名の手勢を率いて独断で根白坂の救援に向かいます。

これに宇喜多秀家配下の戸川達安という猛将も加わり、両者は寡兵ながらも、奇襲をしかけて島津軍を翻弄します。

さらに尾藤知宣の命令を無視することにした小早川隆景や黒田官兵衛らの部隊も島津軍に向かい、これを挟撃して多大な損害を与えます。

豊臣軍の反撃を支えきれなくなった島津軍は、一族の島津忠隣が戦死するなどして敗走に追い込まれました。

こうしてまたしても抜群の軍功をあげた高虎は、その働きを秀吉から褒め称えられ、一気に1万石を加増されて2万石の領主となりました。

先の家康の屋敷の建築の時もそうでしたが、高虎は状況を自分で判断して、正しい行動を選択をして実行できる、勇気のある人物だったことがわかります。

この功績によって、従五位下・佐渡守にも叙任され、名高き武将としての地位を確立しました。

なお、根白坂の救援中止を強硬に主張していた尾藤知宣は、この時の消極的な姿勢を秀吉に咎められ、後に追放されています。

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