豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

スポンサーリンク

本能寺の変

この知らせとは、京都の本能寺で信長が明智光秀に討たれたというものでした。

これを知った秀吉は呆然自失となり、うなだれたままで何も語らなくなってしまいました。

こうして備中で、大勢力である毛利氏に対しても有利に戦況を展開できている秀吉の存在は、すべて信長の手によって作られたものでした。

信長は放浪者であるにすぎなかった秀吉を引き立て、教え導いて大名にし、数万の大軍を指揮させる立場にもつかせました。

信長は秀吉の創造者と言ってもよいほどの存在であり、秀吉にとっては師匠や恩人という言葉では言い尽くせないほど大きなものです。

それが不意に失われたことで、秀吉は自分というものをどう保っていいかわからなくなったのでしょう。

この時に黒田官兵衛は、秀吉の耳元に「これでご運が開けましたな」とささやきました。

これを聞いて、秀吉は自分が信長の後を受けて天下を狙える可能性を得たことに気づきます。

際どい発言でしたが、いくぶんの毒がまじっていた方が、かえってこの時の秀吉には効果があると官兵衛は判断したのでしょう。

信長の事業を継承するのだと思うことで気持ちをふるい起こし、秀吉は官兵衛に毛利氏との和睦を早急にまとめるようにと命じます。

和睦の成立

翌6月4日に秀吉は恵瓊を呼びつけ、三ヶ国の割譲で和睦を認めることを告げ、引き続き清水宗治の自害を要求します。

毛利氏は条件が緩和されたことからこれを受け入れ、やむなく宗治に自害をするようにと申し伝えます。

これを受け、宗治は重臣や兄とともに船で高松城の外に出て、秀吉らが見守る中で自害をして果てました。

その立ち居ふるまいは落ち着いた立派なもので、秀吉は宗治を「武士の鑑である」と賞賛しています。

後に武士が自害する際には切腹をするのが一般的になりますが、この時の宗治の様子に感銘を受けた秀吉が、そのようなしきたりを作ったのだという説があります。

ともあれ、こうして毛利氏との対戦に決着がつき、秀吉は急いで軍を畿内へと戻す作戦に取りかかります。

一方、この日の夕方には毛利氏のもとにも信長が死亡したという情報が届いており、際どいタイミングで和睦がなされたことになります。

これを聞いた毛利氏は軍議を開き、秀吉を追撃するべきかを議論します。

吉川元春は追撃を主張しますが、小早川隆景はこれを認めませんでした。

主君の仇討ちをしようとする者の後を追うのは不義になるし、和睦は既になされたのだからこれを裏切るのもまた不義である、というのがその主張の論理でした。

隆景は慎重な性格で、これから中央の情勢がどうなるかわからない以上、秀吉に手を出して恨みを買うことは避けたほうがよいと思っていたようです。

もしも秀吉が勝利して天下人になった場合、ここで追撃をしたら将来に大きな禍根を残すことになるからです。

この隆景の判断のおかげで秀吉は無事に撤退することができ、追撃をしなかった毛利氏に感謝し、その政権下で高い地位を与えて優遇しています。

小早川隆景は野心が乏しく、天下を制するほどの器量はありませんでしたが、非常に賢く、めったに物事の判断を誤らない人物で、存命中は毛利氏の勢力を無事に守り通しています。

【次のページに続く▼】