豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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中国大返し

秀吉は6月5日のうちは毛利氏の出方をうかがって待機しており、追撃がないようだと判断して6日から撤退を開始します。

そして足守川を塞いでいた堤を切り崩させ、周囲を泥沼の状態にして、万が一毛利氏が追撃をしかけてきても、時間を稼げるようにと処置をします。

そして抑えの部隊を残して秀吉軍は撤退を開始しました。

秀吉はひとまず備前にある沼城にまで戻り、続いて本拠である姫路城までわずか1日で帰還しました。

沼城から姫路城までは70キロの道のりで、この日は雨が降っていましたが、これを武装した大軍が1日で駆け抜けたことになります。

当時としては驚異的な行軍速度であり、これは「中国大返し」と呼ばれています。

これには毛利軍の追撃を避けるという理由と、信長が亡くなったことで備前の宇喜多氏が毛利氏に寝返って攻撃をしかけてくることを警戒した、という2つの理由がありました。

姫路城まで戻った秀吉は全軍の集結を待ちつつ、摂津の諸大名たちに書状を送り、自分が畿内の近くまで戻っていることや、間もなく光秀を討つために出陣することを通知しています。

摂津には光秀も書状を送って多数派工作をしており、このあたりは時間との戦いでした。

秀吉は6月9日まで姫路に滞在し、急行軍の疲れを癒やすために休息を取りつつ、城内に蓄えていた米穀や金銭を、すべての将兵に分け与えます。

これによって将兵たちの士気を高めつつ、これからの信長の仇討ちに全てを賭けることを、行動をもって宣言したことになります。

将兵たちが信長の死によって受けていたであろう衝撃を和らげ、秀吉のために戦わせる意識を持たせる措置でもあったと思われます。

秀吉はおねの血縁者である浅野長政に留守を任せ、自身は2万の軍を率いて摂津へと進軍を開始しました。

摂津の諸将を味方に引き入れる

摂津には中川清秀や高山右近といった武将たちが勢力をもっており、秀吉は両者に使者を送って味方に引き入れます。

さらに伊丹の池田恒興や、四国征伐のために大坂に滞在していた信長の三男・信孝や丹羽長秀らも加え、秀吉は自軍を含めて3万ほどの軍勢を集めることに成功します。

引き続き畿内各地の大名たちにも使者を送り続け、自分に味方して明智光秀と戦うようにと促します。

秀吉の元には信孝だけでなく養子の秀勝もおり、この子は信長の四男であったことから、秀吉は自軍に信長の仇討ちをする正当性があると、主張しやすい状況に置かれていました。

信長から養子をもらっていたことが、意外な形で生きたことになります。

明智光秀の孤立

これとは対照的に、明智光秀は孤立の度合いを深めていました。

信長を討った後で、こちらも各地の大名たちに、ともに天下を制しようと呼びかけますが、有力な諸将の中でこれに応じる者はいませんでした。

一部の軽輩の武将たちが参加していますが、大きな戦力にはなっていません。

それどころか、子ども同士が婚姻関係にあった細川藤孝にも味方してもらえず、光秀はまったく味方を増やせていませんでした。

光秀もまた低い身分から信長に引き上げてもらった存在でしたが、そのような大恩のある信長を討つに足る大義名分をもっておらず、このため光秀には人気が集まりませんでした。

一方で、秀吉には主君の仇討ちを行うという立派な大義名分があったため、こちらにはどんどん人が集まって来ます。

やがて秀吉が備中からわずか数日で摂津に姿を表したことを知り、慌てた光秀は、これを迎え撃つために京都に軍を集結させます。

秀吉は河内(大阪東部)のあたりを慎重に行軍し、京都方面へと進軍していきます。

摂津に戻るまでは強行軍でしたが、畿内に入ると光秀が伏兵を用いて攻撃してくる可能性もあったため、ここからは急がずに行動をしていました。

このあたりの緩急の見極めができるところが、秀吉の優れた点のひとつだと言えます。

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