家康の懐柔
家康は秀吉による味方勢力の討伐によって追い詰められていましたが、依然として秀吉に降伏しないままでした。
家康にとって、かつての同盟相手・信長の家臣でしかなかった秀吉の天下は、心情的に受け入れられなかったのかもしれません。
家康は関東の北条氏との同盟を堅持することで、東海・甲信・関東にまたがる秀吉への抵抗勢力を形成します。
これを軍事的に制圧しようとすればかなりの大戦となることは必至で、秀吉はこれを避け、軍事的にも政治的にも優れた能力を持つ家康の取り込みを図ります。
秀吉はまず妹の朝日姫を家康に嫁がせ、家康に人質を与えます。
より力のある者の方が人質を送ったわけで、これで懐柔しようとしますが、家康はそれでも動きませんでした。
これを受けて秀吉は、さらに母の大政所(おおまんどころ)をも、家康の元に送る措置を取ります。
(この大政所は「なか」のことです。関白の母となったことで朝廷から称号を与えられました)
母と妹を差し出してまでして家康に臣従を迫ったわけで、そこまで譲歩されては家康も、さすがに追い詰められていくことになります。
これで臣従をしなければ戦いになることは確実で、そうなれば最終的には敗戦に追い込まれる可能性が高く、家康はついに重い腰を上げることを決意します。
この時期には天正大地震の影響によって家康は領国に大きな被害を受けており、そのうえ天候が不順で農業収入が低下していたため、開戦は難しい情勢にありました。
また、秀吉との外交を担当していた重臣の石川数正が出奔する事件が起きており、これもまた家康の心情を揺さぶったものと思われます。
家康の上洛と臣従
家康はついに上洛して秀吉に対面し、諸大名の前で臣従することを約束しました。
秀吉はこの前夜、護衛をひとりだけ連れて家康の元を訪れ「明日は自分に頭を下げて欲しい」と依頼したと言われています。
五ヶ国を支配する大大名で、信長の同盟相手だった家康が頭を下げて臣従を誓えば、諸大名はできたばかりの豊臣政権に権威を感じるようになると、秀吉はその影響力に期待していました。
この時に家康の周囲には大勢の護衛の侍たちがおり、その気になれば容易に秀吉を暗殺できる状況でした。
妹や母を差し出し、危険な場所にひとりでやって来て「頭を下げて欲しい」と頼んできた秀吉の姿を見て、家康は相手は何を失うことも恐れない、桁の違う人間であるらしいと感じ、素直に従った方がいいと判断したようです。
こうして秀吉は頑強に抵抗を続けた家康の取り込みに成功し、いよいよ天下統一の実現が間近に迫ってきました。
九州征伐
この頃の九州は薩摩(鹿児島県)から勃興した島津義久が席巻しており、九州の南部から中部を支配下に置いていました。
これに対し、北九州の大友宗麟が抵抗を続けていましたが、島津氏の攻勢の前に潰えようとしており、秀吉の元に何度も救援要請が届いていました。
秀吉は大友宗麟と島津義久に対し、関白として惣無事令を発して停戦を命じますが、島津氏がこれを無視して戦闘を続けたことを受け、九州への討伐軍の派兵を決定します。
先遣隊を家臣の仙石秀久に命じ、先に降伏した長宗我部元親と、讃岐に領地を持つ十河存保(そごうまさやす)らを同行させます。
秀吉は防衛に徹して拠点の小倉城を維持するように命じたものの、仙石秀久はこれを破って独断で攻撃し、島津軍に大敗を喫しました。
しかも友軍を見捨て、小倉城をも放棄して領地の淡路にまで逃げるという、他に例のない大きな失態を演じています。
これによって元親の嫡子の長宗我部信親と、十河存保が戦死するという甚大な被害を受けました。
久秀は長らく秀吉に仕えてきた武将でしたが、この失態に秀吉は怒り、領地を没収して追放しています。
この事件が、後に嫡子を失った長宗我部氏が滅亡する遠因ともなってしまいました。
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