豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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別所長治の寝返り

播磨では秀吉と官兵衛の調略によって織田氏の勢力が強まっていましたが、しかし諸豪族は必ずしも秀吉に心服していませんでした。

毛利方も播磨に調略をしかけ、この結果、翌1578年の5月には、三木城の別所長治が寝返ってしまいます。

別所氏は播磨守護の赤松氏の一族で、そのために名門意識が強く、元々の身分が低かった秀吉との折り合いが悪かったと言われています。

また、領内には信長と敵対していた一向一揆の勢力が強く、このことにも影響を受け、織田氏に従うことをよしとしない者たちが多かったようです。

別所氏は一向一揆と協力して7500まで兵力を増大させ、堅城である三木城を拠点にしていたため、侮れない勢力となりました。

秀吉は三木城を包囲して攻撃を開始しますが、毛利氏が支援のために大軍を上月城に差し向けて来ており、播磨の情勢は緊迫したものとなります。

このため、秀吉は信長に支援を要請します。

これを受けて信長は、嫡男の信忠を中心とした2万の援軍を播磨に差し向け、三木城の攻略を命じます。

秀吉は信忠らと合流すると、三木城の周辺にある支城を攻略し、兵数が膨れ上がっている三木城の兵糧補給を妨害して降伏させようと試みます。

そうこうしているうちに毛利氏が上月城の周囲に到着し、陣地を構築してこちらも兵糧攻めを開始しています。

尼子氏の滅亡

秀吉は信長に上月城への支援を要請しますが、信長は三木城攻略による播磨の平定を優先するようにと命じ、上月城への援軍の派遣を許しませんでした。

このため、上月城の尼子氏の武将たちは孤立してしまい、3万という毛利氏の大軍に包囲されたことで窮地に陥ります。

毛利氏は当主である毛利輝元と、その補佐役である重臣の小早川隆景と吉川元春が自ら出陣してきており、本隊とその精鋭部隊が顔を揃えていたことになります。

一方、この時にはすでに三木城に播磨戦線の焦点が移っていたため、上月城には戦略的な価値が乏しくなっていました。

このため、信長は上月城を見捨てるようにと秀吉に指示を出したのです。

秀吉は上月城の政治的な価値を訴えて救援を再度要請しますが、信長はこれを頑として受け入れませんでした。

援軍を得られる見込みがなくなった上月城は、2ヶ月ほどの籠城戦の末に毛利氏に降伏しています。

そして尼子氏の当主・勝久とその一族が自害し、尼子氏は完全に滅亡しました。

山中鹿之介も捕らえられ、護送中に殺害されています。

こうして尼子氏を見捨てたことにより、播磨とその周辺では織田氏への評価が急落し、諸豪族たちの動揺を誘うことになります。

信長の選択は、いざという時に織田氏は自分たちを助けてくれないのではないかと、現地の豪族たちに疑いを抱かせることにつながってしまったのです。

これが原因となって、織田氏から毛利氏への連鎖的な寝返りを誘発していくことになります。

秀吉はこのことを危惧していたのですが、信長には伝わらなかったようです。

毛利氏が当主直々に出向いてきたのに対し、信長は子供と家臣を派遣するだけで対応していたことからも、現地の豪族たちにどちらがより信頼できそうなのか、その評価に差がついたと思われます。

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