豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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和平交渉の決裂

1596年になると、小西行長と沈惟敬らが画策した日本と明の和平交渉は破綻し、再び秀吉は朝鮮への討ち入りを決意します。

明から送られてきた使節は、秀吉に対し「日本国王であることを認め、明の冊封体制に入ることを許す」というものでした。

これは日本が明の格下として組み込まれることを意味し、まずは明と対等になり、将来はこれを征服することをもくろんでいた秀吉の意向にはかなわないものでした。

こうした齟齬が起きたのは、行長らが和平交渉をなんとかまとめようと、互いの政府の意向の伝達に虚偽を交えていたためです。

秀吉があまりに強気に各国に要求を押し付けようとしたため、そのまま伝達すると交渉がまとまる可能性が全くなかったため、行長らはやむなくそのような行動に出ていたのでした。

後にこれが発覚し、沈惟敬は明の政府によって処刑されています。

慶長の役の開始

こうして交渉は決裂し、1597年に、秀吉は元養子の小早川秀秋を総大将とした、14万の大軍を朝鮮半島に送り込みます。

この時は前回とは違い、朝鮮半島南部に城塞を築いてその支配権を確立することを目的としていました。

斬新的に進めていかなければ、容易に朝鮮と明の征服は成し得ないと秀吉は判断していたようです。

派遣した部隊は各地で明や朝鮮の軍と戦いながら城塞を築き、概ね成功を収めて半数の部隊は日本に帰還しました。

秀吉はそれを足がかりとして、1599年に再び唐入りの軍を起こそうとしていましたが、その死によってその計画は中止となり、頓挫しています。

結局のところ、秀吉の行った唐入りは、日本・朝鮮・明のそれぞれの国力をひどく疲弊させる結果に終わり、誰も利益が得られない戦いとなりました。

秀吉自身とその後継者である秀頼の年齢を考えると、あまりに巨大すぎる無謀な事業に取り組んだことで、政権の寿命を縮める原因のひとつになってしまいました。

秀吉配下の武将たちの軋轢

秀吉の唐入りは国内経済の疲弊を招いた他、その家臣たちの関係を悪化させることにもつながりました。

秀吉は石田三成を中心とした奉行衆に、朝鮮での各武将たちの働きを視察させ、その報告を受け取ることで遠征先の情勢を把握していました。

この際に奉行たちが武将たちに対して厳しい評価を下すことが多く、それをそのまま信じ込んだ秀吉は、奉行衆の非難を受けた武将たちを罰することが数多くありました。

外国に遠征し、厳しい環境で苦労しながら戦っていた武将たちにとっては、奉行衆の報告によって秀吉から罰せられるのは、背後から撃たれるのに等しい、非常に腹立たしい事態であり、これが豊臣家臣団の分裂を招いていくことになります。

ここで罰せられた武将には、小早川秀秋や黒田官兵衛・長政親子、加藤清正らがおり、彼らはいずれも後に徳川家康に味方し、豊臣政権の弱体化と徳川幕府の成立に深く関与していくことになります。

体調の悪化と五大老・五奉行制度

秀吉は1598年ごろから体調を崩すようになり、日ごとにそれは悪化していきました。

しかし後継ぎの秀頼はまだ5才でしかなく、秀吉は政権のあとを「五大老」と呼ばれる大大名たちに託すことになります。

五大老は徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝の五名のことを指します。

このうちの徳川家康と前田利家が筆頭格で、特に秀吉は個人的にも付き合いの深い前田利家を頼みとしていました。

利家は秀頼の傅役(もりやく。教育係のこと)になっており、律儀で篤実な性格であることから、自分の死後に豊臣政権を支えてくれるだろうと期待をかけていました。

そして秀吉は自身を除けば最大の実力者である家康にも秀頼の後見を頼み、秀頼と家康の孫・千姫を結婚させるようにと命じます。

秀吉は最後の演技として、家康に涙ながらに秀頼のことを頼み込んでおり、これがしばらくは家康の心を縛り付けたかもしれません。

一方で、政権の実務は石田三成を中心とした五奉行に委ねるという方針をとり、五大老と合わせ、彼らの手によって秀頼を支えて豊臣家の天下を保ってほしい、というのが秀吉の願いでした。

秀吉は他に、自身を八幡神として神格化することを遺言しています。

八幡神は武家の頭領である源氏が祀っていた神で、その神号を得ることで、豊臣家に武家を束ねる権威を付与したいと考えていたようです。

これはやや変化した形で実現し、秀吉は豊国大明神として祀られることになります。

これらの措置を終えると、秀吉はこの年の8月18日に死去しました。

享年は62才でした。

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