さらに立身する
その後、董昭は成都郷候になって領地が変わり、太常に任命されました。
そして光禄大夫、太僕と地位が変わりましたが、いずれも魏の重臣の地位でした。
曹丕が亡くなり、曹叡が皇帝になると、楽平候になり、領地千戸を賜り、衛尉になります。
そして領地百戸を分割し、子のうちの一人が関内侯になりました。
このようにして、董昭は長生きをし、順調に身分を高めていきます。
司徒になり、上奏する
二三二年になると、董昭は司徒(大臣)に昇進しました。
そして風紀が乱れていることと、その害について上奏します。
「天下の支配者の中で、誠実な士を尊重し、不実な人間を憎まない者はいません。不実な者は教化を損ない、統治を乱し、風俗を悪しきものにするからです。近いところでは、魏諷が建安の終わりに処刑され、曹偉が黄初の初めに殺害されました。
昨今の詔勅を考慮しますと、表面だけを飾り、実質の乏しい者を憎まれ、不正を働く者たちを処罰したいと考え、歯がみをしておられます。しかし、法律を司る官吏たちは、彼らの権勢に恐れを抱き、摘発する者がいません。
このため、風俗の乱れはひどくなる一方です。いまの若者たちを見ると、学問を根本にせず、友人づきあいにばかり励んでいます。国家に仕える者たちも、親への孝行や、目上の人間に対する礼節や、清廉さを大事にせず、権勢と利益を得ることばかりを重視しています。
徒党を組み、悪口を言うことを罰とし、内輪でほめ合うことをよしとしています。自分に従う者には賛辞を浴びせ、従わない者には欠点を作り出し、批判します。
『今の時代、どうして世渡りを心配することがあろう。仲間を探そうとせず、仲間を作る網が広くないことだけ心配すればいい。自分が理解されないことなど、心配しなくてもいい。彼らには薬を飲ませ、従順にさせればいいのだから』などと、彼らは言い合っています。
また、このような話を聞き及んでいます。ある者が、身分の低い自分の子弟に命じ、給仕役の名目を与え、宮中に出入りさせ、天子の側を行き来させているそうです。そして役人たちの交際や、上奏の内容を探らせているとか。
これらのことは、すべて法によって禁じられており、刑罰を免れることはできません。魏諷・曹偉の罪もこれ以上ではありますまい」
曹叡はこれを受け、厳しい詔勅を出し、罪に該当した諸葛誕や鄧颺らを罷免しています。
董昭はこの後、二三六年に八十一才で亡くなり、定候とおくりなされました。
子の董冑が後を継ぎ、郡太守や九卿にまで立身しました。
董昭評
三国志の著者・陳寿は「董昭らはすぐれた謀才を備えた世の奇士だ。清廉さや徳業においては荀攸には及ばないが、策略にすぐれていた点では、彼らは同等である」と評しています。
董昭は荀彧や郭嘉など、他の参謀たちと比べると、大敵を打ち破る戦略や戦術を立てたわけではなく、やや地味な存在でした。
しかし、曹操が献帝をその手に握れるように工作したり、魏王になるように勧めたりするなど、曹氏の勢力の伸張に貢献した点では、大きな功績がありました。
また、他の者たちや世の風潮に流されることなく、的確な意見を述べることができたことから、硬骨な性質を持っていたことがうかがえ、それが董昭をやや際立った存在にしたようです。