袁紹の戦いに参加する
やがて、曹操と袁紹との間で戦いが始まると、袁紹は顔良を送って東郡を攻撃してきました。
すると董昭は魏郡の太守に就任し、顔良の討伐に加わります。
その後、戦況が優勢になると、曹操軍は袁氏の拠点となっていた鄴城を包囲しました。
この城には袁紹が任命した魏郡太守である袁春卿がおり、守備についています。
曹操は春卿の父である袁元長を揚州から連れてこさせました。
そして董昭は春卿に手紙を送り、降伏を促します。
董昭は春卿の父が曹操の元におり、孝行のためにこちらに来るべきだと告げます。
また、袁氏ではなく、徳のある皇帝と曹操にこそ仕え、忠義を尽くすべきだとも説きました。
やがて鄴が平定されると、董昭は諫議大夫(皇帝の助言役)に任命されています。
食糧輸送に功績を立てる
袁紹の子である袁尚は、父の死後も曹操と争っていましたが、やがて敗北し、烏桓族の蹋頓を頼って落ち延びました。
曹操は北方の辺境に向かい、これを討伐しようとしますが、食糧の輸送が困難であることを心配します。
このため、董昭は平慮・泉州に運河を作り、海から食糧を輸送できるように計画を立て、この問題を解決しました。
この功績によって董昭は千秋亭候の爵位を与えられ、司空軍祭酒に任命されます。
曹操が魏公・魏王に任命されるようにと主張する
袁氏を完全に滅ぼした曹操は、天下の三分の二を支配し、強大な勢力を確立します。
すると董昭は、過去の歴史において、周公旦や太公望など、抜群の功績を立てた者たちが藩国を開いた故事を持ち出し、同等の功績を立てた曹操も、国公の地位につけられるべきだと主張しました。
これがきっかけとなって、やがて曹操は魏公となり、魏王にも就任しています。
そして魏が漢に取って代わるための準備が進んでいきました。
董昭は世の移り変わりの発端を開いたのだと言えます。
先に楊奉に策を用いたときもそうでしたが、董昭は朝廷の周辺にあって、曹操に権力が集まっていくようにと画策した点において、功績があったのでした。
関羽との戦いで策を述べる
二一九年になると、関羽が荊州において、樊城に攻撃をしかけてきました。
曹操は援軍に于禁をさしむけますが、彼が関羽に降伏したため、樊城を守る曹仁は危機に陥ります。
このため、曹操は孫権に使者を送り、関羽を攻撃するようにと要請しました。
すると孫権が曹操に、次のように伝えてきます。
「軍勢を西に向かわせ、関羽の不意をつき、その領地を奪い取ろうと考えています。江陵と公安は連なっておりますが、この二つの城を奪われたら、関羽はこちらに駆けつけてくるでしょう。
このため、樊城の包囲は、救援を送らずとも自然に解かれることになります。このことは秘密にしてください。もしも漏れると、関羽に備えられてしまいます」
これを受け、曹操は臣下たちに情報を秘密にするようにと戒めました。
そして臣下たちもみな、このことは当然、秘密にするべきだと言います。
しかし董昭は、異なった意見を述べました。
「戦いにおいては、臨機応変に策を用いることが重要です。孫権の要望に応じて秘密にするように見せつつ、密かに漏らした方が、こちらに利益があります。
関羽が、孫権が攻撃してくると知り、もしも引き返して防ぎに回れば、樊城の包囲は解かれ、すぐにこちらの利益となります。そして関羽と孫権を対峙させ、彼らを疲弊させることができます。秘密をあくまでも保つと、孫権ばかりが得をすることになり、最良の計略とは言えません。
また、包囲の中にある樊城の将軍や官吏たちは、救援があることを知らないままでいると、食糧が乏しくなってきたことに怯え、もしかすると裏切るかもしれません。その場合の被害は大きなものとなります。
そして関羽は強気な人物ですので、二城の守りが固いことを頼りにし、引き返さない可能性も高いと思われます」
このようにして、董昭は情報を漏らした方が、自軍にとっての利益が大きいと主張しました。
曹操はこれを聞くと「もっともだ」と述べ、樊城の救援にあたっている徐晃に連絡し、孫権からの文書を樊城の内部と、関羽の屯営に射込んでこれを知らしめます。
樊城の内部では、援軍があると聞いて士気が高まりました。
そして関羽は董昭が予測した通り、孫権が動いていると知っても軍勢を引きませんでした。
結局のところ、樊城は守り通されたものの、江陵や公安は孫権の手に落ち、関羽は撃ち破られるという結果に終わります。
情報を漏らしたことは、樊城を守り切る上では効果があったのでした。
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