「死せる孔明、生ける仲達を走らす」とは

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「死せる孔明、生ける仲達ちゅうたつを走らす」とは、三国志の中で語られている言葉です。

「孔明」は諸葛亮、「仲達」は司馬懿しばいあざなで、両者の間に起きた出来事から、この言葉が生まれました。

以下の文章で、その経緯と意味を紹介します。

諸葛亮が北伐を実施する

諸葛亮は初め、劉備に仕えて側近となり、蜀の建国に貢献しました。

やがて223年に劉備が亡くなると、漢王朝の復興という志を引き継ぎ、蜀の全権を担う立場につきます。

そして国力を強化し、軍勢を整え、漢から帝位を簒奪した魏を討ち滅ぼそうと、果敢に攻撃をしかけました。

この事業は「北伐ほくばつ」と呼ばれています。

諸葛亮は228年から、たびたびこれを実施しましたが、食糧不足に悩まされ、なかなか成果をあげることができないでいました。

諸葛亮
【魏の打倒を目指した諸葛亮】

五回目の北伐

234年になると、諸葛亮は五回目の北伐を実施し、武功郡の五丈原に陣営を構え、屯田を開始しました。

これによって食糧不足の問題を解決し、魏に対し、より積極的に攻勢に出られる体制を作ろうとしたのです。

魏は諸葛亮の進軍に対応するため、司馬懿に迎え討たせました。

司馬懿は陣地を堅く守って出撃せず、諸葛亮の挑発にも応じませんでした。

司馬懿はこれより以前に、諸葛亮の陣営に攻撃をしかけ、三千もの首級と、大量の武器を奪われ、大敗を喫したことがありました。

このために、戦いに対して消極的になっていたのです。

また、蜀軍は食糧不足で撤退することが多かったので、時間稼ぎをしてそれを待った方が得策だろうと、考えてもいたのでした。

諸葛亮が体調を崩す

諸葛亮はこうした事態を見越して、前年のうちに食糧を蓄え、前線に輸送できる体制を構築しています。

その上、屯田も軌道にのれば、魏の予測を裏切って、前線に長期滞在することも可能になっていくはずでした。

しかしこの頃には、諸葛亮は長年の激務によって、体調を崩しがちとなっていました。

そして8月になると、ついに倒れてしまい、回復が望めない状況となります。

全軍の撤退を命じてから死去する

諸葛亮は自分が世を去った後、そのまま北伐を継続するのは困難だろうと考え、側近の姜維きょうい楊儀ようぎに命じ、全軍を撤退させることにしました。

そして間もなく死去します。

すると姜維と楊儀は、諸葛亮の命令通りに軍をとりまとめ、撤退を開始しました。

司馬懿が追撃してくる

蜀軍が撤退を始めると、近隣の住民たちがこれを通報したので、司馬懿は軍勢を動かし、追撃を開始します。

これより以前、司馬懿は諸葛亮が、朝早くから夜遅くまで働き、食が細っているという情報を得ていました。

このために、諸葛亮が遠からず亡き者になるだろうと予測していたのです。

そして諸葛亮さえいなければ、蜀軍を撃破するのは可能だと考えたのでした。

姜維が立ち向かう姿勢を見せる

司馬懿が追撃してきたことに気がつくと、姜維は軍旗をひるがえし、太鼓を打ち鳴らし、迎え討とうとしました。

司馬懿はその様子を見ると警戒し、結局は攻撃をしかけず、そのまま引き下がっています。

こうして司馬懿を追い払うと、姜維と楊儀は再び撤退を開始し、谷に入ったところで諸葛亮の喪を発表しました。

死せる孔明、生ける仲達を走らす

これを知った住民たちは「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言いはやして、司馬懿を揶揄やゆします。

諸葛亮がすでに亡くなっているのに、恐れて攻撃ができなかった司馬懿の、ふがいなさをあざけったのでした。

この言葉が流行していると知らされた司馬懿は「わしは生者なら相手にできるが、死者を相手にするのは苦手なのだ」などと言いました。

追撃をかけた時点では、まだ諸葛亮が生きていたのか、死んでいたのかは不明でした。

なので実際には、司馬懿はもしも諸葛亮が生きていて、再び大敗を喫することを恐れたのですが、それでは体面が悪いので、このように言い訳をしたのです。

つまり司馬懿は生きていた諸葛亮にも、死んだ諸葛亮にも、勝てなかったのでした。