陳震は劉備や劉禅に仕え、内政や外交面で活躍した人物です。
誠実な性格だったので諸葛亮から重用され、呉との重要な外交を担当しました。
この文章では、そんな陳震について書いています。
南陽に生まれる
陳震は字を孝起といい、荊州の南陽郡の出身でした。
生年は不明となっています。
劉備は210年に荊州の牧に就任しましたが、その時に陳震を召し出して従事(秘書)に任命し、管轄している諸郡をとりしきらせました。
やがて劉備が劉璋に招かれて入蜀すると、陳震もそれにともなって移動しています。
このように、陳震は当初、劉備の側近を務めていたのでした。
【成都にある陳震の塑像】
蜀の地方官や内政官を歴任する
214年に蜀が平定されると、陳震は蜀郡の北部都尉になり、やがて郡名の変更に伴って汶山の太守(長官)になりました。
また犍為の太守にも就任し、各地の長官を歴任します。
そして225年になると、中央に戻って尚書(政務官)となり、やがて尚書令(政務長官)に昇進しました。
このようにして、陳震は出世を重ね、蜀の内政の中枢を担うようになったのでした。
呉との外交も担当する
やがて陳震は劉禅の勅命を受け、呉に使者として赴き、外交をも担当するようにもなりました。
229年になると、孫権が呉の皇帝を称するのですが、その際に諸葛亮は陳震を衛尉(宮廷の衛士を統括する大臣)に任命し、孫権の即位を慶賀させました。
この時に諸葛亮は、呉の重臣となっていた兄の諸葛謹に手紙を送り、次のように述べています。
「孝起(陳震)の誠実かつ純朴な人柄は、老いてますます堅固になっています。
呉と蜀の友好を促進し、喜びをともにする上において、貴重な存在だと言えます」
この手紙から、陳震は外交官として、諸葛亮から高く評価されていたことがうかがえます。
陳震の書状
陳震は呉との国境に入ると、関所の役人に布告文を渡し、告げました。
「東方(呉)と西方(蜀)では、使者が往来してひきもきらず、当初からの友好関係を維持し、日々新たにその関係を発展させています。
東方の尊いお方(孫権)が位を保たれるべく、柴を炊いて天に報告され、みしるしを受けられ、領土を開かれると、天下は響きのごとくこたえ、東西の民はそれぞれ帰属する場所を得ることになりました。
この時において、心をひとつにして賊(魏)を討伐したならば、いかなる賊も、滅びぬことはないでしょう。
蜀の君臣は今回のことを大変に喜び、あなた様を頼りにしています。
私は不才ながら、使者の役を仰せつかり、ご挨拶を申し上げ、友好の意を表しに参上しました。
国境を喜び勇んで越え、自分の国へ帰るのと同じ気持ちで、呉に入国しました。
春秋の時代、晋の范献子は魯に赴き、魯の先君と同じ山の名前を、うっかり口にする失礼を働いてしまったため、『春秋(歴史書)』は彼を非難しています。
どうか私にご教示くださり、私が呉のみなさまと親しく関わっていけるようにしてください。
その日のうちに使節の旗を振り、ともの者たちに告げ、各自に誓いをさせます。
流れに従い、あわただしくやってまいりましたが、国家の制度はそれぞれに異なっていますので、おそらくは間違えてしまうこともあるでしょう。
どうか事情をくみ取ってくださり、適切な指示を賜りますように」
このように、 陳震の外交文書は、よく気が配られており、行き届いたものでした。
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