陳震 内政や孫権との外交に活躍した、誠実な蜀の文官

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天下を分割する話がまとまる

陳震が武昌ぶしょうに到着すると、孫権は陳震とともに祭壇に登り、生贄いけにえの血をすすって盟約をし、呉と蜀で天下を分割する約束をしました。

徐州・州・幽州・青州は呉に所属し、へい州・涼州・州・えん州は蜀に所属し、司州は函谷関かんこくかんを境界にすることにしました。

協力して魏を打倒し、呉と蜀で天下を二分するというのが、この時点の両国の戦略だったのです。

蜀呉の分割案

魏が圧倒的に強く、呉も蜀も劣っていましたので、言わばこれは弱者の連合で、この分割案も、結局は絵に描いた餅として終わってしまいます。

ともあれ、こうして呉との重要な外交をまとめた陳震は、その功績によって、城陽亭候の爵土を与えられています。

李厳について、諸葛亮に忠告をしていた

諸葛亮が北伐を行っていた際に、食料の供給を担当していた李厳りげんは、職務を怠った上に、愚にもつかない偽りを述べ、自分の失態を覆い隠そうとしました。

このために李厳が免職になると、諸葛亮は長史(副官)の蒋琬しょうえんと、侍中の董允とういんに手紙を送り、次のように述べています。

「孝起が以前、呉に赴くに際し、『正方(李厳の字)は腹の中にトゲがあって、郷里の者たちも近づかないと言っている』と、話してくれた。

私はトゲというものは、ただ触れなければ、それで済むものだと思っていたが、蘇秦そしん張儀ちょうぎ(戦国時代の縦横家)のような、口先だけのごまかしが、突然行われるとは思いもよらなかった。

孝起にこの事を知らせてやらなければなるまい」

陳震は李厳がいずれ問題を起こすだろうと見越していたのですが、諸葛亮は李厳がそこまで性根の悪い人間だとは、考えていなかったのでした。

235年に陳震は逝去し、子の陳済が後を継いでいます。

陳震評

三国志の著者・陳寿は陳震を次のように評しています。

「陳震は誠実で慎み深く、老いてますます篤実だった」

これは諸葛亮の評をそのまま用いたようです。

初期の蜀の人材には、陳震のように忠良で誠実な人物が多く、そのあたりが蜀が小さいながらも、数十年に渡って国を保てた要因になっているのだと思われます。

それには劉備や諸葛亮がそのような人材を見いだし、積極的に活用していったことが影響しているのでしょう。