太守は中国の官職です。
秦の時代に設置された郡守が元になっており、郡という行政単位を統治するのがその役割です。
当時、郡守は行政のみを担当しており、軍事は郡尉が担当していました。
秩禄は二千石で、丞相(首相に相当)などに次ぐ高官の立場です。
前漢にもこの制度は引きつがれ、紀元前148年に太守と改称されました。
三国志では
後漢では、行政区分は県→郡→州の順番に大きくなっていきましたので、太守は地方官の中では、中間に位置する存在でした。
官僚の出世のルートとして、県令→太守→刺史(州の長官)という順番が存在しています。
たとえば曹操は、はじめ頓丘の県令でしたが、やがて東郡太守となり、その後で兗州刺史に昇進しています。
【曹操も通常の官吏のルートをたどって地位を高めていった】
他には、孫堅は県令の丞(副官)から、議郎(軍の統括官)をへて長沙太守になっています。
彼らが太守になったのは戦乱の時代でしたので、郡の兵を率いて反乱の討伐に当たるなどしており、行政と軍事の両方を担うようになっていました。
相という地位
太守に似た地位に相があり、こちらは諸侯や王の領地を統治する役割です。
漢では中央集権化のため、皇帝の親族などに領地を与えても直接統治はさせず、役人が管理して収入だけを渡す仕組みとなっていました。
たとえば劉備は平原国の相となり、その後で徐州や豫州の刺史へと身分を高めています。
このようにして、太守や相は、より高い地位に昇るためのステップの役割も果たしていたのでした。
知府事などに変化する
その後も、唐の前期ごろまでは太守の名称が使われていましたが、やがて宋や明の時代になると、知府事や知府といったように変更されていきました。
ここでの「知」は「治める」という意味を持っており、現代の日本で使われている「知事」もこれを由来としています。
日本では
日本においても太守の名称が使われており、時代によって対象が変化しています。
平安時代
平安時代では、常陸(茨城)・上総(千葉)・上野(群馬)の国司(長官)が、特に太守と呼ばれました。
なぜかというと、この三国は天皇の子である親王が国司に任命されていたからです。
このため、太守と呼んで差別化を図ったのでした。
鎌倉時代
また、鎌倉時代では、北条氏の得宗(当主)が太守と呼ばれました。
北条氏の得宗は鎌倉幕府の主導者でしたので、これもまた特別な存在であることを表すために用いられていたのだと言えます。
室町・戦国時代
室町時代や戦国時代になると、複数の国にまたがって守護職を持つ者が太守と呼ばれます。
具体的には細川氏や斯波氏、畠山氏などの管領家や、山名氏などがこれにあたります。
戦国時代では、九州の北西部を支配した龍造寺隆信が「五州二島の太守」を自称しており、室町時代の風習を引きついでいたことがわかります。
江戸時代
江戸時代では、一国以上の領地を支配する国持大名が太守と呼ばれました。
加賀・能登・越中を支配した前田家や、薩摩・大隅を支配した島津家などがこれにあたります。
使われ方としては、室町・戦国時代と同じだと言えるでしょう。
このように日本では各時代において、地方の統治者の中でも、特に地位の高い者が太守と呼ばれたのでした。