賈逵は魏の臣下で、反乱の鎮圧や呉との戦いで活躍した人物です。
若い頃から軍事の才能を高く評価され、やがて曹操の側近になりました。
曹丕の代になると豫州の刺史となり、内政に励み、気持ちがゆるんでいた役人たちを引き締め、統治を改善して天下の模範とされます。
その後は呉を討伐しようと計画を立てますが、曹休の失敗によって頓挫しました。
統治が優れていたことが評価され、死後、官民によって祠を建てられ、長く祭られています。
この文章では、そんな賈逵について書いています。
河東に生まれる
賈逵は字を梁道といい、河東郡襄陵県の出身です。
一七四年に誕生しています。
子供のころからよく、軍隊の編成を考えて遊んでいました。
祖父の賈習は賈逵の資質を見込んで、「お前は大人になれば、指揮官になるに違いない」と言い、数万字にのぼる兵法を教えます。
賈逵の家は名家だったのですが、若いころに親を亡くしたので、家が貧しくなってしまいました。
冬にはく袴すらも持っていなかったのですが、妻の兄である柳孚の家に泊まった時に我慢できなくなり、柳孚の袴をはいて去ったという話があります。
郭援に攻撃される
このように苦労しましたが、やがて賈逵は郡の役人となり、絳邑の県長代行となりました。
するとやがて、郭援が河東を攻撃してきます。
郭援は袁紹の子・袁尚から河東太守に任命され、曹操軍と戦っていました。
郭援が進軍する先では、その通り道にあたった城や街は、すべて降伏します。
そんな中で、賈逵だけが固く城を守りました。
郭援は攻撃をしかけますが、陥落させられなかったので、匈奴の単于(指導者)を呼び寄せ、軍を合流させて激しく攻撃します。
このために城が崩壊しそうになりました。
郭援に従わず
絳邑の長老たちは交渉し、賈逵を殺害しないという約束を郭援から取り付けます。
郭援は賈逵の名声を聞いていたので、従えて将軍にしようと考えました。
このために賈逵に会うと、武器をつきつけて脅迫しましたが、賈逵はまるで動じませんでした。
すると側近の者たちが賈逵をひっぱり、無理やりに叩頭させます。
賈逵は彼らに向かって「国家の高官たる者が、どうして賊に叩頭しなければならないのだ!」と言いました。
郭援はこれを聞いて怒り、賈逵を切り捨てようとします。
絳邑の官吏や住民たちは賈逵が殺されそうになっていると知ると、みな城壁に登り「約束をやぶって賢君を殺害するのなら、我々もともに死ぬ」と言いました。
郭援の側近の者たちが、賈逵の態度に感じ入り、許すようにと請願したので、殺されずにすんでいます。
この事態から、賈逵には人望があったことがうかがえます。
見知らぬ相手に助けられる
郭援はひとまずは許したものの、賈逵を穴蔵の中に閉じ込め、車輪を上にかぶせ、見張りを置いて監視させました。
そして遠からず、機会を見つけて賈逵を殺害する気でいました。
賈逵は穴蔵の中から、「このあたりに勇気のある者はいないのか。正しい行いをした人間を死なせてもよいのか!」と呼ばわります。
すると、たまたま通りかかった祝公道という人が、賈逵のその発言を耳に入れました。
賈逵と面識はなかったのですが、彼が正義を守り、そのために命が危険にさらされていることを憐れに思います。
このため、その夜に賈逵を助け出し、枷を壊して立ち去らせました。
しかし祝公道は、自分の名前を名のりませんでした。
こうして賈逵は危ういところを、義心のある人の助けによって逃れています。
郭援の軍勢を引き止める
これより以前のこと、賈逵は皮氏という土地を通った際に、「戦いになった場合、先にこの地を抑えた者が勝利する」と言っていました。
それから郭援の侵攻を受け、絳邑が包囲されると、やがて逃げられないと悟ります。
このため、人を送り、間道をつたって郡の役所に官印と綬を届けさせ、「急いで皮氏を占拠せよ」と伝えさせました。
やがて郭援は絳邑の軍勢を吸収すると、進軍を開始しようとします。
賈逵は郭援に皮氏を取られてしまうことを恐れ、別に計略を用い、郭援の参謀である祝奥を惑わせました。
これによって郭援は七日ほど進軍が遅れます。
一方で、郡の方は賈逵の言葉に従って、その間に皮氏の守りを固めたので、郭援に敗れずにすみました。
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