賈逵 曹操の側近となり、豫州を治めた文武両道の人物

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東関の攻略に向かう

その後、呉の将軍の張嬰ちょうえい王崇おうすうが軍勢を引き連れて降伏してきました。

これを受け、二二八年になると、曹叡は賈逵に前将軍の満寵まんちょうや、東莞とうかん太守である胡質こしつら四軍を監督させ、西陽から東関に向かわせます。

また、曹休にはかんから、司馬懿には江陵こうりょうから進ませました。

やがて賈逵は五将山に到達しますが、曹休が賊軍(呉軍)の中に降伏を願う者がいると上奏します。

そして敵地の奥深くにまで進み、応じることを求めました。

このため、司馬懿は進軍を止め、賈逵は東に向かって曹休と合流するように、との詔勅が下ります。

曹休の救援に向かう

賈逵は、呉は東関に守備隊を置かず、必ず皖に軍を集結させるので、曹休が敵地の奥深くに進み、呉と戦うことになれば、敗北するだろうと予測します。

このため、諸将に担当を割り当て、水陸の双方から同時に進軍しました。

それから二百里ほど進むと、生け捕りにした呉の兵から、曹休は戦いに敗れ、孫権は兵を派遣し、夾石きょうせきをさえぎっている、という情報を得ます。

諸将はこれを聞いて惑い、後から援軍がやってくるのを待つべきではないかと望む者も現れました。

これに対し、賈逵は次のように述べます。

「曹休の兵が敗れ、都への道は絶たれている。進んでも戦えず、退いても帰還することができない。安全と危険の分かれ目は、一日が終わらないうちに訪れる。

賊はこちらに後続する軍勢がないのを見て、ここまでやってきた。なのでいまから急いで進撃し、敵の不意をつくべきだ。これこそが『先んじて人の心を制する』と言われることだ。

賊は我が軍の姿を見れば必ず逃走する。もしもさらに後続の軍を待っても、賊はすでに難所をさえぎっているから、何の役にも立つまい」

賈逵はそれから、通常の倍の速度で行軍し、旗と陣太鼓をたくさん用い、軍勢が多数であるように見せかけました。

すると呉軍は賈逵が予測した通り、その姿を見ると退却します。

賈逵は夾石を占拠し、兵と食糧を曹休に供給したので、これによって曹休の軍は息を吹き返しました。

仇に恩で報いる

賈逵と曹休はもともと仲が悪く、かつて曹丕が賈逵にせつ(軍における裁断権)を与えようとしていた時に、曹休が反対していました。

「賈逵は剛毅な性格です。普段から将軍たちを侮っていますので、都督にしていはいけません」と曹休が述べると、曹丕は取りやめています。

しかしこの敗戦では、賈逵が救援していなければ曹休は助からなかったわけで、曹休はあだを与えた相手に救われることになったのでした。

一方で賈逵は、恨みのあった相手を助けたことで、評判がよくなっていきます。

曹休の要求をはねつける

しかし、曹休は賈逵に救われたにも関わらず、賈逵の進軍が遅かったから敗北したのだと逆恨みしました。

このために賈逵を叱責し、後から人をやって、豫州刺史(賈逵)は捨ててきた武器を拾いに行け、と命じます。

曹休は征東大将軍の地位にあり、賈逵よりも立場が上でした。

賈逵は自分の方が正しいと確信していたので、「私は国家のために豫州の刺史になっているのであって、捨てられた武器を拾うためではありません」と言って拒否し、軍を引き上げて帰還しました。

そして賈逵と曹休は互いに上奏し、それぞれの言い分を朝廷に伝えます。

朝廷では、賈逵の方が正しいと判断していましたが、曹休は皇族の一員で、地位が高かったので、どちらも責めず、うやむやにして終わらせました。

その後、曹休はなおも合流する期日に賈逵が遅れたことを取り上げ、賈逵を罪に落とそうとします。

これに対し、賈逵は沈黙を貫きますが、それによって人々は賈逵のことを、ますます立派な人物だと思うようになりました。

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