賈逵 曹操の側近となり、豫州を治めた文武両道の人物

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やがて亡くなる

賈逵は二二八年のうちに、病を得て亡くなります。

五十五才でした。

危篤になった時、側近に「国家から厚恩を受けながら、孫権を斬ってあの世で先帝にお会いできないのが残念だ。葬儀のために何かを新しく作ったり、修繕したりしないように」と言い残しました。

しゅく候とおくりなされています。

豫州の官吏と民は賈逵を追慕し、石に文を刻み、ほこらを建立しました。

賈逵は内政に力を入れていましたが、それによって住民たちから慕われることになったようです。

青龍年間(二三三〜二三七年)に、曹叡は東征をした際に、御車に乗って賈逵の祠に入ります。

そして詔勅を出しました。

「昨日、項を訪れ、賈逵の石碑と像を目にした。そのことを思い出すと、涙がこみあげてくる。

昔の人は言った。名声の立たないことは気になるが、寿命が長くないことは気にならないと。

賈逵は存命の際には忠誠を貫き、勲功をあげた。そして死んでからは慕われている。死してなお、不朽の人物だと言える。

よって天下にこのことを知らせ、奨励せよ」

また、二五七年にも皇帝の曹ぼうが祠に立ち寄り、賈逵を称賛し、祠を清掃して修理をするようにと命じています。

このようにして、賈逵は死後も尊重されたのでした。

子の賈充が後をついでいます。

賈逵評

賈逵は文武の才に優れ、国家への忠誠心も厚く、優れた人物だったと言えます。

軍事面は実績によって明らかですが、豫州における内政も、民に死後も慕われたことから、的確な施策を行っていたことがうかがえます。

ただ、賈逵は果断な性格で、独断で行動する傾向もあり、そのあたりが曹休に非難される要因となったかもしれません。

余談ですが、賈逵の子の賈充かじゅうは司馬氏の腹心となり、晋の建国に貢献しました。

晋が成立すると大臣の地位を得て、公の爵位も与えられ、大いに栄えています。

一方、賈逵を称賛した皇帝・曹髦を殺害してもおり、魏に対しては不忠なふるまいをしました。

そして賈充の娘の賈南風かなんぷうは、晋の二代皇帝・恵帝の皇后になりますが、権謀を好む性格で、他の権臣たちを排除しようとし、晋の宮中をおおいに乱します。

政争に勝利し、一時は賈氏一族が晋の権力を掌握しますが、やがて反発を受け、賈南風は殺害されてしまいました。

そして賈氏一族も処刑され、滅亡しています。

賈氏は魏に貢献し、魏を滅ぼし、晋に貢献し、晋を衰退させており、この時期の王朝の興亡に、大きな影響を及ぼしました。