賈逵 曹操の側近となり、豫州を治めた文武両道の人物

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推薦を受ける

河東の役人だった孫資そんしは、推挙を受け、都であるきょに異動となります。

すると孫資は曹操に、賈逵のことを推薦しました。

「絳邑の賈逵は、官吏と民を励まし、賊の郭援と戦いました。力尽きて敗れ、賊に捕縛されましたが、正義の心をもって屹立きつりつし、表情も言葉も、屈服の気配を示すことはありませんでした。

その忠義の言葉は人々に響き渡り、その節義は明らかに示されています。古代の髪を逆立てた者や、かなえによりかかった者であっても、これほどではないでしょう。

彼は文武の才を兼ね備えており、有用な人物です」

このように、賈逵は郭援との戦いで名を挙げ、曹操に知られるようになったのでした。

張えんの反逆に対処する

賈逵は後に茂才もさいに推挙され、澠池べんちの県令になります。

それから、元袁紹の重臣だった高幹こうかんが反乱を起こすと、張琰ちょうえんが挙兵し、これに呼応しようとしました。

賈逵はその計画を知らないまま、張琰に会いに行きます。

異変が起こったと知ると帰還しようとしますが、捕縛されてしまうことを心配しました。

このため、計画に同調するように見せかけ、張琰のために策を立ててやります。

すると張琰は賈逵を信用しました。

この当時、澠池県はれい城に行政府を置いていましたが、城壁も堀も堅固ではなく、防御力が低い状態でした。

なので賈逵は張琰に、城壁を修理するための兵を求めます。

張琰がこれに応じたので、城を修理し、それから張琰に対抗することができました。

賈逵が反乱の仲間になったように見せかけると、彼らは賈逵に計画を包み隠さず話していたので、後にそれを利用し、彼らを打倒してみな処刑することができました。

賈逵はこのように、策謀にたけた人物だったのです。

張琰が討伐されると、賈逵は祖父を失ったことを理由に、官を辞しています。

弘農太守の代行になる

その後、賈逵は司徒(大臣)に召し出されてえん(属官)となり、議郎に就任して司隸しれい(首都圏)の軍事に参与しました。

曹操は二一〇年に馬超を討伐した際に、弘農こうのうに立ち寄りましたが、「ここは西方への街道における要所である」といい、賈逵に弘農太守を代行させます。

召し寄せると、会見して話をし、大変に賈逵のことを気に入りました。

そして側近に言います。

「天下の二千せき(高官)がみな賈逵のようであったなら、何の心配もいらないのだが」

こうして賈逵は、曹操から高い評価を受けました。

免職になるも復帰する

その後、賈逵が兵を徴発した際に、屯田都尉が逃亡民をかくまっているのではないかと疑います。

問い詰めると、都尉は太守の所属ではなかったので、賈逵に向かって不遜な言葉を述べました。

このため、賈逵は怒って都尉を逮捕し、罪があるとして責め立て、その脚をたたき折ってしまいます。

これを咎められて免職になりましたが、曹操は賈逵を買っていたので、改めて丞相主簿しゅぼ(側近)に取り立てました。

曹操をいさめて逮捕される

それから曹操は呉を討伐しようと計画しますが、長雨にみまわれたので、軍の中には、参加を望まない者が多くなります。

曹操はそれを知ると、いさめに来る者が現れるのを懸念し、次のように命令を出しました。

「わしは戦いの準備を命じたが、まだ攻める相手を決めたわけではない。もしもいさめに来るものがあれば死刑にする」

この様子から、この時期には曹操の精神が、だいぶ硬直してきていたことがうかがえます。

賈逵はその命令を受けると、同僚の三人の主簿に向かって言います。

「いまは出陣してはならない時期なのに、このような命令が出ている。いさめないわけにはいくまい」

そして諫言かんげんの草稿を書き、三人に示しました。

三人はしかたなく署名し、参内して曹操にそのことを申し述べます。

曹操は命令に逆らわれたことに立腹し、賈逵たちを逮捕させました。

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