丞相主簿になる
やがて大軍が征討に出ることになると、賈逵は再び丞相主簿祭酒(軍事顧問)に任命されます。
賈逵は以前、他人の罪に連座したことがありました。
曹丕は「その昔、叔向は功績をたて、十代のちの子孫まで罪を許されるとされた。賈逵は自分自身で功業をたて、徳行を積んでいる」と述べ、過去のことは問わないと述べ、起用した理由を明らかにしています。
曹丕に従って黎陽の渡しまで来ると、列を乱す者たちが現れました。
賈逵はその者たちを切り捨て、ようやく列が整うという場面がありました。
やがて譙に到着すると、賈逵は豫州の刺史に任命されます。
この時、賈逵は進み出て、次のように述べました。
「臣は宮門を守り、六年に渡って出入りをしました。王が即位され、宮門が開かれると、臣は外に出ることになりました。どうか殿下は万民のために配慮なさり、天と人々の期待を裏切らないでください」
豫州の統治を立て直す
このころ、天下の情勢はひどい混乱から立ち直りつつありましたが、州や郡では行政が行き渡らないことが多くなっていました。
この事態に対し、賈逵は意見を述べます。
「秦の時代、州では御史が巡行し、各郡を監督したものでした。前漢の時代、六か条の詔書によって、郡の役人や二千石以下の官吏の取り締まりも行われています。
監督者には厳格さと有能さと勇武の才があるべきで、平静さと寛大さと仁愛の徳が求められるのではありません。
ただいま、高官は法を軽んじ、盗賊が横行するようになっています。州では事態を把握しながら、これをとがめようとしません。
これでいったい、どのようにして天下に正義を取り戻すのでしょうか」
このように述べ、不正を働く者たちを、厳しく取り締まることの重要性を説きました。
豫州の兵曹従事は、前の刺史の時から休暇をとっており、賈逵が着任してから数ヶ月がすぎて、ようやく戻ってきます。
このように規律がゆるみきっており、賈逵は州の二千石以下の官吏の中で、阿諛追従によって地位を保ち、法律を守らない者を調べ上げ、全員を免職にするようにと上申しました。
すると曹丕は「賈逵こそがまことの刺史である」といい、賈逵のやり方にならうようにと天下に布告します。
この功績によって、賈逵は関内侯の爵位を得ています。
軍備を整え、内政を充実させる
豫州は南で呉と接しており、軍事的に重要な地域でした。
賈逵は綿密に敵情視察をさせ、武器を修理し、守備と攻勢の両面において備えをしたので、呉が領域を侵犯してくることはありませんでした。
こうして外に対しては軍備を整え、内に対しては民政に努めます。
賈逵はまず、鄢水と汝水をさえぎり、新しく堤防を築きました。
また、山を掘って断ち切り、谷川の水をため、小弋陽陂を作ります。
そして二百里(八十キロメートル)に渡って運河を通し、これは賈候渠と呼ばれました。
このような施策によって、賈逵は豫州の統治を安定させます。
呉との戦いに勝利する
やがて賈逵は他の将軍たちとともに呉を攻撃し、洞浦で呂範を打ち破り、陽里亭候に昇進しました。
また、建威将軍の称号も付与されます。
曹叡が即位すると二百戸を加増され、合わせて四百戸になりました。
こうして賈逵は順調に功績を重ね、地位が高まっていきます。
東関を攻略する策を提案する
このころ、孫権は東関を拠点としていましたが、ここは豫州の南方で、長江からは四百里ほど離れていました。
そして出兵して魏に侵入してくる際には、西方では江夏から、東方では廬江からやってきます。
魏が征伐する場合にも、淮水と沔水を通っていました。
当時、豫州の軍は項に駐屯し、汝南や弋陽の諸郡は国境を守っているだけでした。
孫権は北方の豫州を警戒する必要がなかったので、東方と西方に危機が迫った時には、軍を移動させて救援しています。
このため、呉は敗北することが少なくなっていました。
つまり孫権は戦場となる東西の地点の中間に位置し、状況に応じて援軍を差し向け、魏の攻勢を防いでいたのだということになります。
賈逵はこの状況を見て、長江までの直通の道を開くべきだと主張しました。
そうすることで、北の豫州から孫権に圧力をかけることができるようになり、孫権は東西に救援を送ることができなくなる、というのが狙いでした。
そして呉軍の連携を絶てば、東関は奪取できるというのが、賈逵の判断です。
このため、賈逵は軍の駐屯地を潦口に移動させ、東関を攻略する策を上申しました。
曹叡はこれを承認します。
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