賈逵 曹操の側近となり、豫州を治めた文武両道の人物

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自ら枷をはめられ、許される

曹操は賈逵たちを獄に送るあたり、誰が発案したのかを取り調べます。

すると賈逵はすぐに「発案したのは私です」と述べ、そのまま走って獄に向かいました。

獄吏は、賈逵が主簿の地位にあったので、すぐには枷をつけませんでした。

すると賈逵は獄吏に言います。

「早くわしに枷をつけてくれ。尊い方(曹操)は、わしが側近の地位にあるから、罪が軽減されることをあてにしているのだろうと、疑いを抱かれている。いまにもわしの様子を調べに、人を送ってくるだろう」

賈逵が枷をつけられると、予測した通り、曹操が家中の者を送り、獄中の賈逵の様子を調べさせます。

そして賈逵が、地位を利用して罪を逃れようとしていないことを知ると「賈逵には悪意がない。元の職に復帰させよう」と言いました。

このようにして、賈逵は巧みに立ち回ることで、曹操をいさめつつ、自分が罰を受けることも防いだのでした。

囚人を釈放して評価される

その後、曹操は漢中で劉備を討伐しようとしていた際に、賈逵を先行させ、斜谷やこくに送って状況を確かめさせます。

その道中で、賈逵は水こう都尉が数十人の囚人を車に乗せ、移動しているところに遭遇しました。

情勢が厳しい時期だったので、賈逵はすぐに重罪の者一人を残し、その他の者たちをみな釈放します。

曹操はその行いをほめ、諫議大夫かんぎたいふに任命し、夏侯尚とともに軍事面の計略を担当させました。

曹操の葬儀を取りしきる

二二〇年になると、曹操が洛陽で亡くなりました。

この時、賈逵は曹操の葬儀の取りしきりを担当することになります。

曹操の後継者である曹丕はぎょうにいて、当初は不在でした。

やがて曹丕の弟である曹しょうが長安から駆けつけ、賈逵に曹操の璽綬じじゅ(魏王の身分の証)はどこにあるかとたずねます。

すると賈逵は毅然とした態度で「太子様(曹丕)は鄴にいらっしゃり、国には世継ぎの方がおられます。先王様の璽綬について、あなたが質問すべきことではありません」と答えました。

曹操の子供たちの間では、曹丕と曹しょくが後継者争いをしていました。

そして曹彰は曹植の味方をしていましたので、璽綬を抑えることにより、曹植の立場を有利にしようとはかったようです。

賈逵はそれを察し、曹彰の行動を妨げたのでした。

曹操の死を秘密にすべきではないと主張する

またこのころは、兵士や民は労役に苦しんでいた上に、疫病がはやっていたので、情勢が不安定でした。

軍の内部が騒然とし、官吏たちは天下に変事が起こることを恐れ、喪を発表しないようにと願います。

しかし賈逵は建言をして、曹操の死を秘匿しないようにと主張しました。

これが取り上げられ、死を発表し、内外の人々を参内させ、告別式を行います。

告別がすんだら、みな平静に過ごし、動いてはならないと命じました。

しかし青州の軍は太鼓を鳴らし、勝手に引き上げていってしまいます。

人々はそれを禁じさせ、従わないのであれば、討伐するべきだと主張しました。

賈逵は「ただいま、魏王の遺体がひつぎにあり、後継ぎの王はまだ立たれていない。彼らをいたわる方がよいだろう」と主張します。

この結果、彼らの通り道のどこであっても、官米を支給するようにと布告が出されました。

このように、曹操の死によって魏の内部が混乱しかけましたが、賈逵が冷静にものごとを判断し、意見を主張することで、大きな問題が起きずにすんだのでした。

魏郡の太守となる

鄴県には民家が数万ほどあり、首都圏に属していましたが、犯罪に手を染める者が多く、治安の悪い地域でした。

このため、曹丕は王位につくと、賈逵を鄴の県令に任命します。

それから一月がたつと、鄴郡の太守に昇進させ、状況を改善させることにしました。

こうして賈逵は、曹丕の代にも重く用いられます。

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