耿苞を処刑する
袁紹は耿苞の建白書を、自らの将軍府に仕える者たちに示し、賛同を得ようとしました。
しかし議論した者たちはみな「耿苞は怪しい説を唱え、人々の心を惑わそうとしている。誅伐するべきだ」といった意見を述べます。
幕僚たちの賛同が得られないとわかると、袁紹は耿苞を殺害し、自分が非難されることを避けました。
耿苞は命令通りにしただけなのに処刑されてしまったわけで、これは理不尽なふるまいだったと言えます。
このようにして、袁紹はこの頃から思い上がったふるまいが増えていくようになりました。
袁譚に青州を治めさせる
袁紹はやがて、長男の袁譚を外に出し、青州を統治させることにします。
沮授はこの事態に危惧を抱き、「必ずや災いの始まりになるでしょう」と言って諫めます。
すると袁紹は「私は息子たちに、それぞれ一州を治めさせたいのだ」と返答しました。
それによって子どもたちの能力を見極め、後継者を誰にするかを決めようとしたのです。
沮授は後継者をはっきり定めておかないと、いずれ兄弟の間で争いとなり、勢力が分裂することになると忠告しますが、袁紹は聞き入れませんでした。
これが結局のところ、沮授が懸念した通り、後に袁氏が滅亡する原因となります。
体制を整え、曹操への攻撃を開始する
袁紹は次男の袁熙に幽州を、甥の高幹に并州を統治させました。
軍勢は数十万にも膨れ上がり、審配と逢紀に軍の事務を統括させます。
そして田豊・荀諶・許攸を参謀に、顔良と文醜を先鋒の大将に任命しました。
こうして体制を整えると、十万の精鋭と一万の騎兵を選抜し、曹操の本拠地である許を攻撃しようとします。
参謀たちの議論
こうして袁紹が南征を実施しようとすると、沮授と田豊が反対しました。
「戦いが何年も続き、民が疲れ切っており、倉庫の蓄えが少なくなっています。
これこそがわが国が深く憂うべきことです。
このため、まずは天子さま(皇帝)に貢物を献上し、農業を盛んにし、民に安らぎをもたらすべきだと存じます。
もし天子さまと連絡が取れない場合、我々が天子さまに敬意を表そうとしているのに、曹氏が邪魔をしていると上奏なさいませ。
その後で黎陽に駐屯し、時間をかけて河南を経営し、船舶を増産して武器を整え、精鋭の騎兵を派遣して国境を荒らします。
こうして曹操の統治を不安定にし、わが方は安定を確保していれば、三年以内に平定することができるでしょう」
このようにして、沮授らは持久戦を主張したのでした。
審配と郭図の主張
一方で、審配と郭図は次のように主張します。
「孫子の兵法には、味方が敵の十倍の戦力であれば包囲し、五倍であれば攻撃をしかけ、拮抗するのなら戦いを交えよ、とあります。
いま、こちらには明公の神のごとき武勇があり、河朔(黄河北方)の強力な軍勢を用いて曹操を討伐するのですから、手のひらをひるがえすようにして、成功は容易です。
曹操を今のうちに叩いておかなければ、後から制圧するのは困難です」
こちらは積極的な攻勢案を述べたのでした。
袁紹は攻勢に出ることを決める
さらに議論は続き、沮授は曹操が皇帝を擁して正当性を獲得しており、かつ曹操軍は精鋭なので、兵力で勝っているからといって簡単に勝てる相手ではないとして、持久戦法をもう一度主張します。
これに対して郭図は、かつて臣下だった周の武王が、主君である殷の紂王を討って天下を平定した事例を持ち出し、曹操の側に皇帝がいても攻撃する名分があると述べました。
そして沮授の計略は安全性を重視しすぎており、状況に臨機応変に対処するものではないとも主張しました。
これを聞いた袁紹は郭図の意見を採用し、曹操に攻撃をしかけることを決定します。
後の発言を見るに、袁紹は曹操と真っ向勝負をし、正面から叩き潰したいという欲求を持っており、郭図の策がその願いにかなうものだったために、こちらを採用したようです。
この時点ではどちらの戦略が正しいか、にわかには判断しがたいところもありますが、袁紹と曹操の将器の差を考えると、沮授と田豊が唱えた持久戦法の方が、成功率が高かったと思われます。
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