任峻は挙兵した曹操に早くから仕え、信任を受けた人物です。
曹操の領地が飢饉に瀕した時期に、食糧の増産を担当し、倉庫を穀物で満ちるほどに生産力を高めました。
そして戦時には物資の輸送を円滑に行うことで、曹操の覇業を支えています。
人情に厚く、困っている人を見捨てない人柄でもありました。
この文章では、そんな任峻について書いています。
河南郡に生まれる
任峻は字を伯達といい、司州の河南郡、中牟県の出身でした。
生年は不明となっています。
河南郡は首都の洛陽がある、栄えた地域でした。
しかし後漢の末期には、董卓が朝廷を崩壊させたことで、河南郡の周辺は大変な混乱に陥ります。
すると、中牟県令(長官)の楊原が不安を募らせたあまり、官職を捨てて逃亡しようとしました。
任峻は彼に働きかけ、思いとどまらせようとします。
楊原を説得する
任峻は楊原に、次のように説きました。
「董卓が動乱を引き起こしたことについて、天下に怒りを感じていない者はいません。
しかし、いまだに先がけて立ちあがる者がいません。
これはその意志を持つ者がいないからではなく、思い切りがつかないためです。
あなたが口火を切れば、きっと呼応する者が現れるでしょう」
すると楊原は「具体的には、どのようにしたらよいのだろう」と任峻にたずねます。
「このあたりには十あまりの県があり、兵力は一万をくだりません。
緊急の措置として、河南尹の職務を代行し、彼らを統率して用いれば、兵を挙げることができるでしょう」
このように任峻が助言をすると、楊原はこの策を用いることにし、任峻を主簿(副官)に任命しました。
河南尹とは、河南郡を統治する長官のことで、県令よりも一段格上の存在でした。
非常時なので、楊原がそれを代行することで、河南郡をとりまとめて混乱を鎮めるべきだというのが、任峻の提案でした。
任峻は楊原の側近になると、朝廷に上奏し、彼が河南尹の代行に任命されるように働きかけました。
そして各県の守備を固めさせ、挙兵しています。
曹操に従う
やがて任峻が予測した通り、各地で群雄たちが董卓を討伐するために挙兵すると、曹操もまた、河南郡の近くで立ちあがります。
そして軍勢を率い、中牟県の県境にまでやってきました。
河南郡がある司州の人々は、誰に従ったらよいか判断がつかず、まちまちの対応を取っていました。
そんな中、任峻は同僚の張奮と相談し、郡を挙げて曹操につくことを決定します。
任峻はそれとは別に、一族郎党と食客の数百人を集め、個人的にも曹操に従うことを申し出ました。
曹操はこれを大変に喜び、任峻を騎都尉(騎兵隊長)に任命するように上奏し、従妹を嫁がせるなどして厚遇します。
そして任峻をかわいがり、信頼して重用しました。
このころには、まだ曹操の勢力はさほど大きくなかったので、任峻が従ってきたことが、よほどにうれしかったのでしょう。
また、これによって人材を引き寄せていこうとする意図もあったと思われます。
【任峻を厚遇した曹操 この頃に優れた臣下を数多く得ている】
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