食糧の補給を担当する
曹操が各地に征伐に出るたびに、任峻はその留守を守り、軍需物資の補給を担当しました。
しかしある時、飢饉が発生し、食糧が不足する事態に陥ります。
すると羽林監(近衛兵隊長)の棗祇が屯田を行う提案をしましたが、これを受け、曹操は任峻を典農中郎将に任命し、食糧の増産を司らせました。
任峻は人を集めて許の県下で屯田を行わせ、農地を拡大し、収穫量を増やしていきます。
この結果、曹操軍は百万石もの穀物を得ることができました。
そして各地の郡と国に田畑を司る役人を配置し、至るところで粟を生産したので、数年のうちに倉庫は穀物で満ちるほどになります。
この任峻の働きが、曹操の軍事活動を支えることになります。
食糧輸送を円滑に行う
200年に、曹操は官渡で袁紹と戦っていた際に、任峻に兵器と食糧の輸送を任せました。
しかし袁紹軍が攻めこんで来て、たびたび輸送路を断ち切ったので、任峻は対抗措置をとります。
任峻は車一千台を一部隊として編成し、それを十列に並べて進み、その周囲を軍勢で二重に囲んで護衛をしました。
こうして一万台の車を連ね、食糧をまとめて運びつつ、それを大軍で護衛することで、襲撃してくる敵の別動隊には、手出しができないようにしたのでした。
これとは逆に、袁紹軍は食糧の護衛に失敗し、曹操に焼き払われたことで、官渡の戦いに敗北しています。
任峻が食糧輸送を滞りなく行ったことも、官渡の戦いの勝因になったのでした。
爵位を得る
このように、曹操の軍事や国事において、必要な物資が豊富に満たされるようになったのは、棗祇の発議したことを、任峻が実現したことによります。
曹操は任峻のこうした働きを高く評価し、上奏して都亭候の爵位を与えました
領邑は三百戸で、加えて長水校尉に昇進しています。
逝去する
任峻は寛大で、人情深く、包容力のある人柄でした。
物事の道理をよく理解しており、意見を述べると、曹操はよく感心してそれを聞いていました。
飢饉が発生した際には、友人たちの遺児を引き取って面倒をみてやり、父方か母方かにこだわらず、窮乏した一族を助けたので、その徳行が称賛されています。
任峻は204年に逝去しましたが、曹操は彼を惜しみ、しばらく涙を流し続けました。
子の任先が後を継ぎましたが、彼が逝去すると、後継者がいなかったので、領邑が没収されています。
しかしその後、魏の皇帝になった曹丕が、過去にさかのぼって功臣を顕彰した際に、任峻に成候と諡をします。
そして任峻の次男の子・任覧を関内候に取り立て、再び爵位を与えました。
こうして、任峻の家系が継続されることになっています。
任峻評
三国志の著者・陳寿は「任峻は最初に義兵を挙げ、それから太祖(曹操)に帰服した。
そして土地を切り開いて食糧を増産し、倉庫を満たした。
その功績は最高のものだったと言える」と高く評価しています。
任峻は戦いには出ていないため、地味な存在ではありますが、彼のように根底を支える人材がいてこそ、曹操の活躍もあったのでした。
後漢の末期には、食糧の生産が不安定になり、各地の群雄は略奪をしたり、食糧のある場所を求めて流れて行く者がほとんどでした。
そんな中、農業を振興し、安定して食糧を確保したことが、曹操が天下の大半を支配するに至る下地となっています。
任峻はその点において、おおいに曹操に貢献したのでした。