黄蓋 赤壁の戦いを勝利に導いた、知勇兼備の武将の生涯

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黄蓋こうがいは孫堅・孫策・孫権の三代に仕えた呉の宿将です。

武勇と智謀に優れ、問題が多い地域の統治もこなせるなど、多彩な能力を持っていました。

特に赤壁の戦いでは、火計を進言して曹操の大軍を打ち破る契機を作り出しています。

この文章では、そんな黄蓋の生涯を書いています。


【黄蓋の肖像画】

貧窮の中で育つ

黄蓋はあざな公覆こうふくといい、荊州の零陵れいりょう泉陵せんりょうの出身です。

祖先は南陽太守(長官)の地位についたことがあり、なかなかの家柄だったのですが、黄蓋は幼い時に父を失いました。

それ以外にも不幸が重なり、貧窮の中でつぶさに辛酸をなめることになります。

しかし黄蓋は大きな志を持っており、焚き木とりの合間に上表文の書き方を学び、兵法を研究するなどし、研鑽を怠りませんでした。

孫堅に仕える

努力のかいあって、黄蓋は郡の役人になったあと、孝廉こうれんに推挙され、三公(朝廷の大臣)の役所に招聘されるほどの存在となります。

その後、孫堅が長沙ちょうさにおいて、董卓打倒のための義兵を挙げると、その配下に加わりました。

孫堅が南の山越さんえつ(異民族)を討ち、北では董卓を敗走させると、功績があったとして別部司馬べつぶしばの官位を授かっています。

これは別動隊長の役割で、黄蓋は指揮官の立場についたのでした。

孫策や孫権にも仕える

その後、孫堅が戦死すると孫策に仕えます。

この頃には、孫策が数名で行動中に、不意に太史慈と遭遇したことがありますが、付き従っていた者の中に名前が見られます。

このことから、孫策の側近のひとりになっていたことがうかがえます。

孫策が仇討ちにあって死去すると、孫権に仕え、呉の宿将となりました。

黄蓋は自ら甲冑をつけて前線に立ち、敵と斬り合いつつ、各地を転戦して城を攻略していきます。

呉の黎明期において、勢力の拡大に貢献したのだと言えます。

統治者としても優れていた

黄蓋は武官として功績を挙げる一方で、問題が多い地域の県令(長官)を歴任しています。

山越たちが服従しなかったり、群盗が荒らしまわっているような県があると、いつも黄蓋がそこの県令を担当しました。

そんな県のひとつに、石城せきじょう県があります。

ここは役人たちの綱紀が乱れきっており、不正が横行し、手がつけられなくなっていました。

このために黄蓋が赴任し、立て直しを図ることになります。

黄蓋の対応

黄蓋はまず、不正を働いている役人たちの中から、二人のえん(属官)を任命し、それぞれに複数の部署を統括させました。

そして次のような布告を出します。

「私は不徳にして、武功によって公の役目を果たしてきたが、文官として評価を受けたことはない。

まだ反逆者が平定されていないので、軍務からは手を離すことはできない。

なので文書の処理はすべてこの二人の属官に任せることにする。

そして彼らに各部署を監察させ、過ちの糾弾や摘発を担当させる。

彼らの所管において、収支に不正やごまかしがみつかったら、鞭打ちですませるつもりはない。(処刑する)

おのおの心をつくし、見せしめとして刑罰を受けるようなことがないようにせよ」

不正の証拠をつかむ

初めのうちは、二人の属官は黄蓋を怖れ、努力をして職務に励んでいましたが、時間が過ぎると、また元のように不正を働くようになります。

黄蓋が文書に目を通さなかったのをいいことに、勝手に情実を働かせ、不公正な決済をするようになったのでした。

黄蓋はそれに気づいており、ときおり調査をさせ、属官たちが不正を働いている証拠をつかみます。

役人を処刑し、綱紀を粛正する

そして役人たちを全員、酒宴に招いて油断させ、その席で二人の属官に証拠を突きつけ、問いつめました。

このため、属官たちは言い訳もできなくなり、叩頭して謝罪します。

すると黄蓋は「先に鞭打ちではすまないと言っておいたな。だから処刑をしても、おまえたちを欺いたことにはならない」と告げ、この二人を処刑しました。

すると県の役人たちは震え上がり、黄蓋の目はごまかせないのだと悟り、以後は全く不正を働かなくなります。

こうして黄蓋は県の役所の建て直しに成功したのでした。

県令を歴任して治績を挙げる

その後、黄蓋は九つの県令を歴任し、どの地域にも平穏をもたらしました。

こうした功績によって、黄蓋は丹楊たんよう郡の都尉とい(広域の統治者)に昇進します。

黄蓋はそこで、豪族たちの横暴を抑えて弱者を守ったので、山越たちも彼をしたって従うようになりました。

このように、黄蓋は統治者として秀でた能力を備えていたのです。

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