襲撃
曹操軍の陣営では、軍吏も兵士たちも、そろって首を伸ばして観望し、「黄蓋が降伏してくるぞ!」と指をさして言い合いました。
黄蓋は北岸から二里(約800メートル)の距離まで近づくと、いっせいに船に火をつけさせます。
火は激しく燃え上がり、さらに強風が吹きつのったので、矢のような速さで曹操軍の船団に向かって突っ込みました。
火だるまの船が打ち当たると、曹操軍の船にすぐに引火し、炎が盛んに燃え上がります。
その火は船団のみならず、陸上の陣営にも延焼し、おびただしい数の人馬が焼死します。
周瑜らは軽装の精鋭部隊を率い、火の後を追うようにして攻撃をしかけ、戦鼓を雷のように撃ち鳴らしました。
火計によって混乱した曹操軍はこれに対応できず、追い散らされていきます。
さらに劉備軍にも追撃を受けた曹操は大打撃を受け、荊州に撤退しました。
こうして黄蓋は知略を用い、赤壁の戦いを勝利に導く上で、重要な役割を果たしたのでした。
韓当に救われる
しかし当の黄蓋は、この戦いの最中に流れ矢に当たり、冷たい川に転落してしまいました。
やがて呉軍の兵士に救い上げられましたが、黄蓋だと気づかれず、そのまま介抱もされずに、便所の中に放置されてしまいます。
この時の黄蓋は、一兵卒と見分けがつかない姿になっていたのでしょう。
このため、黄蓋が力をふりしぼって同僚の韓当の名を呼ぶと、彼が「これは公覆(黄蓋)どのの声ではないか」と気がつきました。
そして船内を捜索し、黄蓋を見つけると、涙を流しつつ、衣服を取り替えてくれます。
こうして黄蓋は命拾いをしたのでした。
昇進し、武陵の平定にあたる
黄蓋はこの戦功を称賛され、武鋒中郎将(上級指揮官)に昇進します。
一方、赤壁の敗戦によって曹操は北方に撤退せざるを得なくなり、その隙をついて呉軍は荊州の中〜南部を制圧します。
そのうちの武陵郡は異民族の多い地域で、呉の侵攻に対して反乱を起こしました。
そして城を攻め落として立て籠もります。
このため、異民族の討伐を得意とする黄蓋が武陵太守に任命され、鎮圧に当たることになりました。

反乱を鎮圧する
黄蓋は武陵に赴任すると、郡の兵士はわずか五百人しかいなかったので、正面から戦うのは無理だと判断します。
黄蓋は一計を案じ、わざと城門を開かせ、反乱軍をおびきよせます。
そして半分が城内に入ったところに攻撃をしかけ、数百人を討ち取りました。
黄蓋は城門を開け放つことで、敵を分断し、弱体化したところを討つ策を用いたのです。
赤壁の時といい、黄蓋は少数で多数の敵を打ち破る策を立てるのが得意だったようです。
知勇兼備の、優れた武将だったのだと言えます。
武陵を平定する
黄蓋に打ち破られると、生き残った反乱軍の者たちは逃亡し、もともと住んでいた部落に戻りました。
これに対し、黄蓋は反乱の首謀者だけを誅殺し、従っていただけの者たちの罪は問いませんでした。
黄蓋の武威と、寛大な措置の効果によって、春から夏までの間に反乱は完全に平定されます。
さらには辺境の巴・由といった地域に住む者たちは、それまで益州に従っていたのですが、黄蓋の威徳を慕って服従するようになりました。
こうして武陵はすっかり平穏となり、黄蓋は呉の勢力拡大に成功します。
黄蓋はさらに、長沙の益陽で起きた山越の反乱の平定にも成功し、偏将軍に昇進しました。
黄蓋がこのように、異民族の統治が得意だったのは、出身地の泉陵が彼らの居住地に近く、若い頃から異民族に接する機会が多かったからではないかと思われます。
こうして数多くの功績を立てた後、黄蓋は215年に、在官のまま亡くなっています。
死後に祭られる
黄蓋は死後に、決断が早く、難事であっても決して引き延ばしにしなかった、と呉の人々から称賛されました。
そして肖像が画かれ、季節ごとに祭られるようになります。
後に孫権は皇帝の位につくと、黄蓋の生前の功績を評価し、子の黄柄に関内候の爵位を授けました。
黄蓋評
三国志の著者・陳寿は黄蓋に対しては個人向けの評価はしていません。
「この巻に載せた部将たちは、みな江南の勇猛な臣であり、孫氏が手厚く遇した者たちである」と、まとめて述べるのみとなっています。
黄蓋は軍事・策略・統治のいずれにおいても秀でた能力を持っていました。
その割に扱いが小さく見えるのは、異民族を服従させる働きが多く、他勢力の武将との関わりが薄かったからかもしれません。
赤壁の戦いにおいて重要な役割を果たしたことから、その才能はかなり大きなものだったことがうかがえます。
黄蓋は、周瑜らのように中枢に位置することはなかったものの、呉の根底を支える、優れた将軍の一人だったのだと言えます。


