劉邦はどうして項羽を討ち破り、漢の高祖になれたのか?

スポンサーリンク

虞美人が自害し、項羽は垓下を脱出する

追い詰められた項羽は別れの宴会を開き、「自分には大きな力があるのに、時に利がなくて敗れてしまった、よ、お前をどうすればいい」」という嘆きの詩を読みます。

そしてこの詩を、項羽の最愛の妻である虞美人が唱和して舞を踊り、やがて項羽の足でまといとならぬよう、自害しました。

項羽は残るわずかな兵たちを率い、垓下を脱出します。

ここで項羽を取り逃がせば、まだどうなるかわからない情勢でしたので、劉邦は灌嬰かんえいという騎兵隊長に追撃させ、「項羽の首を取ったものには千金と一万戸の食邑しょくゆうを与える」と宣言しました。

つまりは項羽を討ち取れば、一躍大貴族の仲間入りができることになります。

項羽の最期

項羽は漢軍の追撃をかわしつつ、長江のほとりにまでたどり着きました。

ここを越えれば、叔父とともに反乱軍を立ち上げた江東に戻ることができます。

そして川の渡しを管理する役人に、長江を渡って再起するように勧められたものの、これを断って名馬のすいを譲り渡します。

出発する時に8千の兵を率いていたのに、それをすべて失った今となっては、江東の者たちに合わせる顔がない、というのがその理由でした。

項羽は道を引き返し、追撃して来た灌嬰の騎兵隊と戦い、自ら数百人の敵を倒し、その強さが健在であることを見せつけました。

そして漢軍の中に呂馬童りょばどうという旧知の者がいることに気がつくと、「劉邦は私の首に大きな報奨をかけているそうだが、旧知のお前に手柄をくれてやろう」と述べ、自ら首をはねました。

すると、漢軍の兵たちは項羽の遺骸に群がり、体を引き裂いて5つに分かちました。

劉邦は項羽の裂かれた遺骸を確保した者たちに、約束した報奨を5分割して渡しています。

報奨を渡した後で、劉邦は項羽を公として手厚く葬り、5年にわたって続いた漢と楚の戦争は、ついに終わりを告げました。

皇帝の地位につき、蕭何を勲功第一とする

こうして中国大陸を制覇した劉邦は、臣下たちの勧めを受け、紀元前202年に漢の皇帝に即位しました。

この時に劉邦は、すでに54才になっていました。

沛で挙兵してからは、7年が経過しています。

劉邦はすぐに臣下たちの論功行賞を行い、勲功第一には蕭何を指名し、酇侯さんこうに封じ、多くの食邑を与えました。

蕭何は戦場での功績はなかったものの、関中をよく統治してまとめあげ、住民が不満を抱かぬように努めつつ、劉邦に安定して兵員と食料・軍需物資を供給し続けた功績が、高く評価されたのでした。

項羽に敗れ続けた劉邦が、5年にわたって戦いを継続でき、最終的に勝利できたのは蕭何の貢献によるところが大きく、劉邦はそれをよく理解していたのです。

韓信を楚王に封じ、張良は留候となる

そして韓信を王にしますが、戦前の約束を違え、楚王の地位につけています。

韓信が楚の出身であり、その内情によく通じているから、というのが理由でしたが、元は項羽の領地でしたので、栄転だったとは言えます。

しかし、斉が70城なのに対し、楚は50城でしたので、劉邦は巧みに理由づけをして、韓信に与える報奨を減少させたのでした。

戦略・戦術面で大きく貢献した張良には、3万戸という莫大な報奨を提示しますが、張良はこれを断り、劉邦と初めに会った留という街をいただければそれで十分です、と返答しました。

これは大きな報奨を受け取って勢力を築くと、いずれは劉邦から警戒され、身に危険が迫ることになるだろうと、張良が予測していたためでした。

【次のページに続く▼】