秦を守る最後の関門へと迫る
劉邦は南陽郡の攻撃に取りかかり、ここの守将も包囲した上で降伏を許し、勢力下に置きました。
降伏すれば命を助けるだけでなく、そのまま城主の地位につけるという約束をしてこれを守ったため、劉邦軍は各地でさほど大きな戦いをすることもなく、容易に秦の領内へと侵入することができました。
懐王から一番に関中に入った者を王にする、という約束をされていましたので、なるべく先を急ぐためにこうした措置を取ったのでしょう。
これとは反対に、項羽は立ちふさがるものをことごとく撃破してから先に進む、という方針を取っていたため、劉邦よりもその軍勢の実力は上だったものの、進軍の速度では劣ることになりました。
項羽が章邯を撃破する
劉邦が順調に秦の本拠に迫る頃、項羽は大陸北部にある鉅鹿を包囲していた、章邯の軍と対決します。
項羽の軍勢はこの時に3万程度の兵力であったのに対し、章邯は20万という大軍を擁していました。
圧倒的な戦力差がありましたが、項羽は秦軍の食料運搬を妨害し、大軍を飢えさせて士気を低下させます。
その上で秦の将軍たちを急襲し、各個に撃破していきました。
そして項羽は自らの部隊の食料を3日分を残して捨てさせ、兵士たちに決死の覚悟を持たせます。
こうして敵の士気を下げ、自軍の士気を上げて奮戦することで、数の差を覆し、その後も連戦連勝を飾りました。
この情勢の変化を受け、様子見をしていた他の反乱軍の部隊も項羽に従うようになり、その戦力がおおいに増大します。
章邯は反乱軍の攻勢を支えきれなくなり、ついには項羽に降伏しました。
これによって秦は反乱を討伐するための軍を失い、ついにその滅亡が間近に迫ります。
一方で、項羽はこの圧倒的な戦勝によって、一躍反乱軍を主導する立場を手に入れました。
虐殺により項羽は評判を落とす
しかし、項羽は人の命を奪うことにためらいがない人間で、ここで大量虐殺を行ったことで、大きく名声を損なうことになりました。
鉅鹿の戦いの後に、項羽は秦軍の20万の兵を捕虜にしましたが、これは自軍をはるかに上回る数でしたので、持て余すことになります。
食料の確保の問題があり、そのうえ反乱を起こされると抑えきれるかどうかがわからなかったため、項羽は彼らを皆殺しにすることにしました。
臣下の英布に命じ、捕虜たちに夜襲をかけて混乱させ、崖に追い込んでそこに飛び込ませるように仕向けます。
そして後ろから追い立てて20万人すべてを崖下に追いやり、その上から土をかけて埋めてしまいました。
このすさまじい措置により、項羽は秦の住民たちから深く恨まれることになります。
章邯ら、降伏した秦の将軍たちは許されましたが、結果的には兵士たちを見捨てて自分たちだけが生き残ったため、彼らもまた項羽と同じく、憎しみを受けることになります。
秦の動揺と、劉邦の関中への侵入
こうして章邯の軍勢が敗北したことにより、秦の国内が大きく動揺します。
この時の皇帝は二代目の胡亥でしたが、彼は側近の趙高によって宮殿の奥深くで酒色に溺れた生活を送らされており、外で起きている反乱については何も知りませんでした。
しかしここに至ってはもはや隠し立ては不可能となり、趙高は謀反を起こして胡亥を自害させます。
そして劉邦に書簡を送って関中を二分する王になろうと持ちかけましたが、劉邦はこれを偽書だと判断し、黙殺しています。
仮に本物だとしても、今さら趙高と手を結ぶ意味はなく、政略的にまったく意味をなさない書簡でした。
劉邦は武関を張良の策によって攻め落とし、いよいよ関中への侵入を果たします。
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