沛県でも動揺が広がる
陳勝・呉公の乱の影響によって、大陸の各地で秦への反乱勢力が立ち上がり、騒然とした状況になりました。
そして沛県の県令がこれに動揺し、自分も反乱を起こされて討たれてしまうのではないかと恐れ、地元の事情に詳しい蕭何や曹参に対応策をたずねます。
この時に蕭何たちは「秦からやってきたあなたに、沛の者たちが心から従うことはないでしょう。それよりも、地元の者たちに人気のある劉邦を頭領に迎え、秦に対する反乱を起こすべきです」と進言しました。
これを受け、県令は劉邦を呼び寄せる策に同意します。
おそらく蕭何や曹参はこうした事態になることを事前に予測し、劉邦を慕う者たちを通して連絡をしていたのだと思われます。
実際に劉邦が街の近くまで戻ってくると、県令はその手際のよさに、蕭何たちは劉邦と結託しているのではないかと疑い始め、街の門を閉ざして劉邦を締め出しました。
当時の中国の街は周囲が城壁に囲まれているため、門を閉ざされると、容易に外から侵入することはできませんでした。
沛の県令となる
こうして街の門の外で待たされることになった劉邦は、一計を案じて実行に移します。
手紙を書いて城内に投げ入れさせ、「この街を守っていたところで、いずれは他の反乱勢力に攻め落とされ、住民にも被害が及ぶことになるだろう。それよりも、今のうちに県令を殺害し、もっと頼りになる人物を長にするべきだ」と告げました。
これを受け、蕭何たちは街の長老たちと協議をして人手を集め、県庁を襲撃して県令を殺害します。
そして門を開いて劉邦を迎え入れました。
劉邦は「天下が乱れている中、自分などを選べばやがて敗北することになるだろう。だから他の人を選ぶべきだ」と言って長になることを辞退しますが、蕭何や曹参たちが劉邦が県令になることを望んだため、これを受け入れています。
こうして沛の支配者となった劉邦は、「沛公」と呼ばれるようになりました。
この時の劉邦はすでに47才で、当時としては初老と言ってもよい年齢になって、ようやく世に出る機会を得られたことになります。
犯罪者から県令へ
こうして劉邦は沛におけるクーデターに成功し、一躍県令の地位を手に入れました。
それまでは秦から見れば犯罪者だったのですが、秦への反乱が勃発してからは、むしろ先駆的に秦に抗った存在であると、評価が変わっていたのでしょう。
また、名士である呂公の娘婿になっていたことも、街の人々の信用を得る上で寄与したと思われます。
こうして劉邦は3千の兵を率いる将となり、秦への反乱に参加していくことになります。
この時点の劉邦陣営の人材
この時に劉邦は蕭何や曹参を配下に加えますが、彼らは後に漢帝国の相国(総理大臣に相当する地位)にまで昇って善政をしいており、始めから優れた人材を手元に抱えていたことになります。
特に蕭何は名宰相として後世にも名を残しており、劉邦軍の兵站や、領地の統治において、その才能を大いに発揮しています。
軍事面では、幼馴染で親友の盧綰や、同じく幼馴染みで、劉邦を慕う樊噲、御者の夏侯嬰、機織業の周勃などがいましたが、こちらの面では、まだ名将と呼べるほどの人材は持っていませんでした。
しかし、彼らは劉邦への忠誠心が高く、まとまりをもった部隊として、立ち上がったばかりの劉邦軍が活動する上では、適した人材だったと言えるでしょう。
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