関中を離れる
項羽は咸陽に入った後、関中を領土にして大陸を治める根拠地にするようにと、論客に勧められます。
既に述べましたが、関中は秦が帝国を築く上で基盤とした肥沃な土地ですので、この助言は的確なものでした。
しかし項羽は「故郷に錦を飾りたい」という理由によって楚に戻ることを望み、関中は章邯ら、巨鹿の戦いで降伏した三人の将軍たちに分け与えました。
この項羽の発言を聞いた論客は、「楚人とは、猿が冠をつけているようなものだと言うが、まったくその通りだな」と言ってあざ笑い、このために項羽に処刑されてしまっています。
項羽のこうした措置が、しばらく後に、劉邦を大いに利する結果を招きます。
劉邦を漢王に封じる
項羽は鴻門の会で劉邦を許しましたが、范増に決して侮らないようにと言われていたため、大功のあった劉邦に、それにふさわしい報奨を与えはしませんでした。
劉邦は咸陽よりも西にある、辺境の地である漢中と巴蜀の地が与えられ、これによって「漢王」と呼ばれることになりました。
地図上で見れば咸陽の左に配置されたことから、これが「左遷」の語源になっています。
漢中は当時、流刑地として扱われていた土地であり、劉邦は不満があったでしょうが、この時点では表立って項羽に逆らうことはできず、これを受け入れて漢中に向かうことになります。
張良と別れ、漢中に入る
そしてこれまで劉邦を支えてきた張良と、この時点でいったん別れることになります。
張良はもともと韓王の家臣であり、韓の再興が成ったいま、その補佐をする必要があったからです。
この時に張良は、項羽たちの疑いを解いて油断させるため、蜀の桟道を、渡ったら焼いてしまうようにと劉邦に助言しました。
蜀の桟道とは、山沿いに木材を渡して作られた細い道で、これを焼いてしまえば、容易に関中に戻ってくることはできません。
劉邦はこの助言を受け入れ、漢中にたどり着いた後、桟道を焼き払いました。
兵や将軍たちが逃げ出すも、韓信が仕官する
こうして劉邦が辺境に追いやられると、将来を悲観した兵士たちの脱走が相次ぎ、将軍までもが一緒に逃げ出す事態が続出しました。
そんな中、大勢の動きとは逆に、劉邦の陣営を訪れた兵士がいました。
彼は名を韓信といい、元は項羽に仕えていましたが、護衛官程度の役職しか与えられなかったため、劉邦の陣営に鞍替えをしたのでした。
しかし一兵卒でしかなかった韓信は、劉邦の陣営でも重用されず、不満を抱いて仲間たちと一緒に物資を横領して宴会を開き、これが判明して処刑されそうになります。
この時に韓信は、「天下が欲しいのなら、この韓信を処刑するのは間違いだぞ!」と騒ぎ立て、これを聞きつけた劉邦の側近・夏侯嬰が韓信を助命させています。
一兵卒で、何の実績もない男が「自分には天下を制する力がある」と叫んでいたのを面白がったようです。
しかし、韓信に実際にそれだけの力が備わっていることに、この時はまだ誰も気づいていませんでした。
蕭何が韓信の才能を見出す
夏侯嬰はやがて、韓信を蕭何に引き合わせます。
蕭何は先に述べた通り、劉邦が沛の県令となったときから軍需物資の確保や、適切な配分などに才能を発揮し、劉邦軍を支えていました。
劉邦が王になってからは、漢中や巴蜀の統治を担当し、政治家としての能力も発揮しています。
蕭何は韓信と接して話をするうちに、彼に巨大な軍事の才能が宿っていることに気がつきます。
そして韓信をひとまず治粟都尉という、食料の管理官に任命しました。
これによって指揮経験のない韓信に、軍隊における兵站の重要性を教えようとしたのでした。
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