劉焉は後漢の末期において、益州で独立を図った人物です。
流血の果てに益州の支配権を確立し、皇帝になろうと企みました。
そして馬騰の反乱に加担して長安を攻撃しますが、失敗して二人の息子を失います。
そして災害にあって居城を失い、失意の中で病にかかって死去しました。
彼のあとは子の劉璋が継ぎ、劉備に奪取されるまで、益州を保つことになります。
この文章では、そんな劉焉の生涯を書いてみます。
漢王朝の宗族として生まれる
劉焉は字を君郎といい、江夏郡の竟陵県で生まれました。
生年は不明となっています。
前漢の景帝の血を引いており、漢王朝の宗族の一員でした。
(より正確には、景帝の子である、魯の恭王・劉余の子孫です)
劉焉の一族は、後漢になってから江夏に領地が移され、分家が竟陵に住むようになります。
このために劉焉は竟陵で誕生したのでした。
官吏として出世する
劉焉は郡や州の役所に勤め、やがて王族であるため、中郎(近衛兵)に任命されました。
しかし、やがて師事していた司徒(大臣)の祝恬が亡くなったため、喪に服するために官を辞しています。
そして陽城山に住み、学問を修めて人々に教える活動を行いました。
すると賢良方正に推挙され、司徒の属官になり、朝廷に復帰します。
(賢良方正は茂才などと同じく、地方の人材を中央に推挙する制度です)
すると劉焉は、洛陽令、冀州刺史、太常(宗廟を管轄する職)などを歴任し、順調に出世を遂げていきました。
地方に出ることを望む
劉焉は王族の出身であり、官吏としても問題なく務めを果たすことで、順調な人生を送っていました。
しかし当時は後漢の衰退期で、宦官が好き放題をし、賄賂がはびこり、地方では反乱があいつぐようになっています。
このため、劉焉は中央に留まるのは危険だと考え、自ら地方におもむくことを望むようになりました。
この願いをかなえるため、朝廷に次のような意見を提出します。
「刺史や太守(地方長官)は賄賂で官職を手に入れ、民を虐げています。このために各地で反乱が起こっていますので、清廉の評判を得ている者たちを起用し、地方長官に任命して、国内を鎮定するべきでしょう」
劉焉自身は、交阯に赴任することを、秘かに希望していました。
交阯は現在のベトナム北部にあたり、後漢にとっては最南端の辺境地帯です。
劉焉はその地の長官になることで、乱世を避け、自分の身に不幸が降りかかることを避けようとしたのでした。
王族でありながら、後漢王朝を支えようという意識は持っておらず、自己中心的な考えをする人物だったことがうかがえます。
益州に狙いを変える
劉焉の希望はなかなか実現しませんでしたが、やがて侍中(皇帝の側近)の董扶が、秘かに劉焉に助言をしました。
「都は今まさに乱れようとしていますが、一方で、益州には天子(皇帝)の気配がございます」
それを聞いた劉焉は、今度は益州の長官になりたいと希望するようになりました。
この頃の益州は、刺史の郤倹が住民に重税を課したために不満が高まり、治安が乱れていました。
その悪評は、都にまで伝わるほどでした。
また、并州や梁州で刺史が殺害される事件があいつぎ、世の混乱がいよいよ表面化してきます。
このため、劉焉の計画はついに実現し、彼は188年に益州牧(長官)に任命されました。
そして監軍使者として郤倹を逮捕し、罪状の取り調べを担当することになります。
霊帝は劉焉を引見し、「前刺史の劉雋・郤倹らはいずれも貪婪・放埒で、賄賂を受け取って、でたらめな政治を行っていた。このために民は頼りにするものがなく、怨嗟の声が満ちている。益州に到着したら、すぐに彼らを逮捕して法を施行し、万民に統治が変わったことを示すのだ。このことを人にもらしてはならない。彼らがそれを知って反乱を起こせば、国家に災難をもたらすことになろう」と訓示しました。
なお、この時に劉虞が幽州の牧に、賈琮が冀州の牧に就任するなど、地方長官の交代が進められています。
彼らはみな清廉という評判を取っていた人物たちで、それによって後漢は、地方統治の立て直しを図ろうとしたのでした。
そして劉虞と賈琮は、それぞれの任地で治安の回復に成功し、事跡をあげましたが、劉焉は彼らとは異なり、独立割拠を目指して活動することになります。
益州に入れず
こうして劉焉は益州に赴任することになりましたが、そうするように勧めた董扶もまた、蜀郡西部の属国都尉(地方武官)になり、ともに益州に向かっています。
おそらくは初めからそのつもりで、劉焉に益州を狙うようにと勧めたのでしょう。
また、太倉令(穀物の管理官)の趙韙に至っては、官職を捨てて劉焉に従いました。
さながら、沈みかけた船から鼠が逃げ出していくようなありさまです。
それほどに、後漢王朝の崩壊は間近だと、内部にいる者たちは切実に感じ取っていたのでしょう。
こうして劉焉たちは益州に向かって出発しましたが、現地では既に反乱が発生しており、簡単に入ることはできませんでした。
このため、劉焉たちはひとまず荊州の東部にとどまることになります。
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