益州の反乱
益州で反乱を起こしたのは、馬相という男でした。
彼は自ら「黄巾」を称しました。
この頃には、黄巾の乱はほぼ鎮圧されていましたが、残党は各地に残っており、馬相もその一員だったのかもしれません。
馬相は綿竹県で蜂起すると、重税や課役に疲れ切った民衆たちを集め、わずか二日で数千人の徒党を結成します。
このことから、当時の益州では、相当に後漢の統治に対する不満が高まっていたことがうかがえます。
彼らはまずはじめに、県の役所を襲撃して県令を殺害すると、官民を集めて一万人の勢力を築きました。
そして雒県も陥落させ、刺史の郤倹を殺害すると、さらに蜀郡にも侵攻します。
馬相らは一か月で三つの郡に侵入し、破壊と略奪をほしいままにしました。
思い上がった馬相は自ら天子を名のり、その軍勢は数万を数えるほどになります。
賈龍が反乱を鎮圧し、劉焉を迎える
こうして馬相は意気盛んでしたが、その軍勢は寄せ集めに過ぎず、馬相自身もさほどの指揮能力は持っていませんでした。
このため、益州従事(参謀)の賈龍が私兵の数百人に、官民を加えた千人ほどの手勢で馬相を攻撃すると、反乱軍はあっさりと撃破されました。
賈龍はたった数日で反乱を鎮圧し、益州の平穏を取り戻しています。
そして賈龍が使者を送って迎えたので、劉焉はようやく益州に入ることができました。
統治を開始した劉焉は、綿竹県に拠点を構えます。
張魯を利用して独立計画を進める
劉焉は益州に入ると、反乱を起こした者たちを手なずけるため、つとめて寛容にふるまいました。
そうして益州を掌握しつつ、朝廷との連絡路を絶つための策を実行に移します。
この頃の劉焉の元には、巫術(シャーマニズム)を使う女性が出入りしていました。
この女性は張魯の母で、息子を取り立ててくれるようにと劉焉に働きかけていたのです。
張魯は「五斗米道」という宗教団体の三世で、劉焉は彼を利用して、益州と都の間の交通を遮断することにします。
劉焉は張魯に督義司馬という地位を与え、漢中に侵攻させ、太守を殺害させました。
こうして劉焉は、自らの野心を露わにしたのです。
都との交通を断つ
張魯が首尾よく漢中を支配下に収めると、劉焉は長安につながる橋を破壊させました。
その上、朝廷からやってきた使者を殺害させます。
にも関わらず劉焉は、「米賊(張魯)が道路を遮断したため、都と連絡がつきにくくなりました」と朝廷に伝達しました。
まさに自作自演だったわけですが、劉焉は益州に到着して以来、悪辣な動きが目立っていくようになります。
劉焉は清廉だという評判を取っていたようですが、それは仮面に過ぎなかったのでしょう。
豪族を殺害し、賈龍を討つ
やがて劉焉は益州の支配権を強化するため、地元の豪族たちを、さしたる理由もなく殺戮しました。
これによって自分の権力を見せつけたのですが、劉焉を益州に招き入れた賈龍が反発し、敵対関係となります。
また、この頃には董卓が台頭し、袁紹らによる反董卓連合が立ちあがっていました。
しかし劉焉はその動きに関わろうとせず、自分の地位を守ることにしか興味を示しませんでした。
そのうえ、むやみに豪族を殺害したことで、賈龍だけでなく、犍為太守の任岐もまた反抗し、劉焉を攻撃しました。
劉焉はこれに対し、青羌という勇猛な部族をてなずけて戦わせ、賈龍らを撃破し、殺害しています。
このように、劉焉は流血を繰り返すことで、益州を自身の独立王国に作り変えていったのでした。
皇帝への野心を疑われるようになる
劉焉は益州の支配権を確立すると、やがて驕慢な態度を見せるようになりました。
自身のお召し車を千乗も作らせ、皇帝の乗り物であるかのように立派に飾り立て、その勢威を誇ります。
すると荊州牧の劉表は、「孔子の弟子である子夏は師のまねごとをしましたが、劉焉はそれと同じように皇帝のまねをして、僭越な態度を取っているようです」と朝廷に報告しました。
この頃には、劉焉は堅固な地形に守られた、豊かな土地を手に入れたことで、外のことが見えなくなり、思い上がりを強めていきました。
かつて、前漢から後漢の移行期に、この地に割拠した公孫述という人物がいましたが、彼もまた、自分が天下の支配者になったかのように、おごり高ぶっていました。
このため、訪ねてきた旧友に失礼な態度をとり、「あれは井の中の蛙だ」と評された、という故事があります。
劉焉もまた、それに近い心理状態に陥っていたのでしょう。
劉焉の息子たち
劉焉は益州で好き放題を始めていましたが、子供たちは長安の献帝に仕えさせていました。
このため、献帝は四男の劉璋を劉焉の元に送り、病気の見舞いがてら、勝手な行いをしていることを諫めさせようとします。
しかし劉焉は、使者としてやってきた劉璋を手もとに留め置き、都に帰しませんでした。
この他には、長男の劉範が左中郎将(上級指揮官)の、次男の劉誕が治書御史(法務官)の地位にありました。
この息子たちは、やがて朝廷への反乱に加担することになります。
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