馬忠は劉備や劉禅に仕えて活躍した人物です。
北伐に参加しただけでなく、南方で起きた異民族の反乱の鎮圧にも活躍しました。
そして慈愛を備えた統治を行うことで、異民族をなつかせ、死後には彼らから祭られる存在にもなっています。
この文章では、そんな馬忠について書いています。
巴西に生まれる
馬中は字を徳信といい、益州の巴西郡、閬中県の出身でした。
生年は不明となっています。
早くに父を亡くしたようで、若い頃は母方の家で養われ、その頃は狐篤と名のっていました。
後に父方の馬姓に戻り、名を忠と改めています。
やがて郡吏となり、220年に孝廉に推挙され、漢昌の県長に任命されました。
劉備に称賛される
222年になると、劉備が呉を討つべく東征をしましたが、やがて敗北を喫したという情報が蜀に伝わります。
すると巴西太守の閻芝は、諸県から兵五千人を徴発し、馬中に率いさせ、劉備の元に援軍として送り出しました。
劉備はその頃、すでに永安に撤退していましたので、馬中はそこで劉備と面会し、言葉を交わします。
すると劉備は尚書令の劉巴に対し「黄権を失ったが、代わりに馬忠を得た。世の中に賢者は少なくないというが、まさにその通りだ」と述べました。
黄権は夷陵の戦いの敗北後に、孤立してやむなく魏に降伏した将軍で、優れた見識を備え、劉備から信任を受けていた人物です。
馬中はその黄権にも劣らないと、高く評価を受けたのでした。
諸葛亮に用いられる
劉備は間もなく薨去しましたが、馬忠は蜀を率いるようになった諸葛亮から、用いられるようになります。
223年に諸葛亮が幕府を開くと、馬忠は門下督(文書記録の監督官)に任命されました。
そして225年に、諸葛亮が南方で起きていた反乱を鎮圧すると、馬忠は牂河太守になります。
これ以前に、牂河では朱褒が反乱を起こしており、人心は定まっていませんでした。
馬忠はこの地において、愛情と慈しみをもって統治を行い、威厳と恩徳を住民に接したので、治安が回復します。
馬忠はこのように、治めるのが難しい土地の扱いに長けていたのでした。
中央に戻って活躍する
230年になると、諸葛亮に召されて丞相参軍となり、中央に復帰します。
そして丞相長史(副官)である蒋琬の次官となり、諸葛亮が出陣中の、成都における政務に携わりました。
また、州の治中従事を兼任し、益州全体の政務を担当するようになります。
これらの経緯から、馬忠が政治に優れていたことがうかがえます。
そして231年に諸葛亮が北伐を実施すると、馬忠は出陣先の祁山に向かい、軍の事務を取りさばきもしており、多方面で活躍しました。
各地の反乱を平定する
蜀軍が北方から帰還すると、汶山郡で羌族が反乱を起こしたため、馬忠は将軍の張嶷らを指揮してこれを討伐します。
さらに233年には、南方の蛮族の大酋長である劉冑が反旗を翻し、諸県を荒らし回りました。
このため、馬忠は張翼に代わって庲降都督(南方全域の統治者)となります。
馬忠は軍を率いて劉冑を討ち、南方を平定しました。
この功績によって馬忠は監軍奮威将軍となり、博陽亭候の爵位も与えられます。
このように、馬忠は北に南に転任し、各地で戦功を立てました。
文武両道の優れた人物だったことがうかがえます。
劉備が称賛したのは、そのような資質を見抜いてのことだったのでしょう。
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